2012年12月31日月曜日

偉大なる国の偉大なるガラス工芸品〜森と湖の国フィンランド・デザイン展


サントリー美術館で開催された、森と湖の国 フィンランド・デザイン展を訪れた。

フィンランドは、ロシアとスェーデンという大国の間に挟まれ、独立したのは、第1次世界大戦後の1917年のことだった。

ガラス工芸を中心としたそのフィンランド・デザインは、そうした民族独立の象徴と考えられていたようだ。

フィンランドの民族叙事詩、カレワラをイメージした作品などに、そうしたことが伺える。

これまで、漠然と、北欧デザイン、としてしか知らなかったが、会場の作品を見るうちに、これは以前どこかで見たことがある、という作品にいくつか遭遇した。

グンネル・ニューマン、カイ・フランク、タビオ・ヴィルッカラ、ティモ・サルパネヴァらといった、フィンランドの偉大なデザイナーたちの代表的な作品が並ぶ。


展示されていたのは、ほとんどがガラス工芸品。それらの作品を見ていると、曲線が多く、特に何を表したという訳ではないが、自然のものをイメージしたものが多いように思えた。

作品を作るための道具や、その過程を撮影したビデオも上映されていた。

曲線の作品は、木で作られた型を使って製作されている。最終的なガラス作品を作る前には、まず、この木製の型を完璧に作らなければならない。

工芸作品は、単なるデザイナーのイメージやアイデアだけではなく、物を作るという過程を経て、最終的に、デザイナーの世界が実現する。

この展覧会では、沢山のガラス製品を通じて、フィンランドという国の偉大さを実感できた。

2012年12月24日月曜日

線だけが表現できるもの〜ベン・シャーン展


丸沼芸術の森が所蔵する作品を中心に、埼玉県近代美術館で、ベン・シャーン展 線の魔術師、という展覧会が開かれた。

ベン・シャーンは、あまり日本ではメジャーな存在ではないが、この展覧会を見た人は、その名前を深く心に刻んだことだろう。

ベン・シャーンには、絵画はもとより、壁画、雑誌の表紙のイラスト、挿画、ポスターなどの多彩な作品があり、今風に言えば、グラフィックデザイナー、とでもいうべき存在だろうか。

ベン・シャーンは、1898年に、当時はロシア帝国の領土内にあった、現在のリトアニアに生まれ、ユダヤ人への迫害から逃れ、家族とアメリカに亡命、石工として働きながら、美術学校や大学に通った、という珍しい経歴を持っている。

そうした背景があったからか、ヒューマニズムの意識が高く、アメリカにおける社会的な活動への支援を、生涯を通じて、芸術を通じて行った。


この展覧会では、サブタイトルにもあるように、ベン・シャーンの線による表現力の高さに、ただただ見入ってしまった。

本当に、最小限の線だけをつかって、人物の表情、愛らしい動物の姿を表現している。

無名の人々は勿論、トルーマン、マーチン・ルーサー・キング、アインシュタイン、ガンジーなどの歴史上の人物も、その人間の本質を、見事に捉えている。

また、手先の表現も素晴らしい。握りあった手と手、握りしめた手、振り上げた拳、楽器を持つ手など。どの手も、独特の表現で、見るものの心に迫る。

会場の最後には、死の前年に出版された、マルケの手記の版画集、の版画作品が展示されていた。ベン・シャーンが、28才の時にその本に出会い、大きな影響を受けたという。

抱き合う人物、羽ばたく鳩、ペンを握る手、人物の表情など、まるでベン・シャーンの代表的な作品のダイジェスト版のような内容になっていて、印象に深く残った。

この展覧会のベン・シャーンの作品は、すべてが線によってだけ描かれていた訳ではない。美しい色合いの水彩画などもあった。

しかし、多くの線による作品を見ていると、線だけが、表現できるものが、確かにあるのだと、思わざるを得なかった。

一人の画家の人生という名の作品〜松本竣介展


世田谷美術館で開催された、松本竣介展を訪れた。生誕100年を記念した、その短いながらも充実した人生をたどる、大規模な展覧会だった。

松本は、1912年に宮城県で生まれ、幼少時代を盛岡で過ごした。最初のコーナーには、その盛岡の風景を描いた作品が並んでいた。

1935年に二科会に初入選を果たした。全体的に青い色を使い、家や人物を線で描くという画風の絵が多く並んでいた。

この、対象を線で描き、全体をある基調の色で描く、というスタイルは、松本の生涯に一貫して流れているものだ。


松本を代表する、東京や横浜の風景を描いた作品。ニコライ堂、東京駅の周辺、横浜の運が沿いの風景・・・。

そうした風景画の名では、それまでバラバラだった線と色が、ぴったりと融合している。

人物画においては、その傾向がより強い。自画像や家族を描いた絵ではとくにそうだ。対象が身近な存在であるほど、線と色の乖離が少ない。

松本は、惜しくも1948年に病いで亡くなってしまったが、会場には、そうした絵画だけではなく、松本が発行していた雑誌、他の雑誌に寄稿した文章、手紙、などの資料も多数展示されていた。

雑記帳、といわれるエッセイでは、松本の日常のことや、美術に対する松本の考え方が綴られている。その文章は、画家の余芸、というレベルのものを明らかに超えている。

戦争中、松江に疎開していた妻に宛てた手紙の数々。そこには、松本の家族に対する熱い愛情が感じられる。

会場に入るまでは、松本の絵画をじっくり味合おう、と思っていたが、会場を出たとき、その作品だけでなく、松本の人生そのものを目にした、という印象が強く残った。

私が見たものは、一人の画家の、人生、という名の作品だったのかもしれない。

2012年12月23日日曜日

文字が持つ底知れない力〜時代の美展その2



五島美術館のリニューアルを記念する、その主要な収蔵品の特別展。第2弾は、鎌倉・室町編。

鎌倉時代になると、宋からもたらされた禅文化が、日本を覆い始める。

一休宗純の筆による梅画賛。梅の花が咲き、冬の終わりを知る、という意味の賛が書かれている。三千世界の氷が溶ける、という表現があり、単なる季節的な冬の訪れではないことを案じさせる。

鎮護国家の道具と成り果ててしまった日本の仏教に対して、個人と世界の直接の関係を取り戻そうとした禅は、その後の日本文化に、決定的な影響を与えた。

そのことが、この一休の一枚の掛け軸からだけでも、伺える。


鎌倉には、宋から多くの禅僧が来日し、鎌倉幕府の指導者たちは、建長寺、円覚寺などを建て、そこにそうした高僧を招いた。

円覚寺の開山となった無学祖元もその一人。その書は、やはり日本人の描く書とはひと味違う。

日本にやってきた多くの禅僧たちは、禅という宗教だけをもたらしたのではなく、宋の最新の文化芸術をも、当時の日本にもたらした。

後に一休が修行することになる、大徳寺を開いた宗峰妙超による墨跡、梅渓。大きな字で、梅と渓、という二つの文字が書かれている。

字の持っている力強さに、思わずその前で足が止まる。

文字を書かなくなってしまった現代人に、文字の持つ不思議な力、を見せつけている。


藤原定家が、その独特な書体を生み出す直前の書。本人は、反古(ボツ)にした書状が、なぜか今日まで伝わり、こうした展覧会でうやうやしく展示されることになってしまった。

定家は、どこかで、苦笑しているかもしれない。

もうひとつの定家の書は、晩年の小倉色紙に書かれた和歌。

あひみてののちのこころにくらふれは むかしはものもおもはさりけり

の、む、け、という3つの文字が、例えようもなく、ただただ美しい。

時代が大きく変わった、鎌倉・室町時代。その時代の人々の残したものは、今も、私の心を揺さぶる大きな力を持っている。

激動の時代を生きた人々の跡〜鎌倉期の宸筆と名筆展


皇居の三の丸尚蔵館で、鎌倉期の宸筆と名筆、という名の展覧会が開かれた。

宸筆とは、天皇の直筆、という意味。文字通り、激動の時代を生き抜いた、天皇たち、また貴族や武士たちの直筆の書が展示されていた。


伏見天皇、後伏見天皇、花園天皇、後村上天皇、光厳天皇、後光厳天皇。鎌倉時代から南北朝時代にかけて、持明院統と大覚寺統に別れて争った天皇たちの書は、歴史を身近なものに感じさせる。


平安時代の末期に、摂政・関白を歴任した藤原忠道の直筆の日記。忠道と母違いの兄弟の藤原頼長の争いが、保元の乱、平治の乱を招き、武士の時代を迎えるきっかけを作った。

その筆跡は、日記ながら、しかっりとした筆跡で、実直な性格が伺える。おそらく、この日記を後世の人が読むことを期待していたのだろう。


藤原定家が写し書きした平兵部記。定家の独特の筆跡が、心に深い印象を残す。


西行の書状。自らの歌集を伊勢神宮に奉納するために、藤原俊成、定家の親子に評価を頼んだが、俊成からは答えが来たが、定家からは来ず、その催促の書状。

どういう意図かはわからないが、文章が斜めになったり、横になったりして書かれている、不思議な書状だ。


平清盛の子で、若くして亡くなり、それが平家の滅亡の一因とさえ言われる平重盛の書状。侍を使わすので、それを召し抱えてやって欲しい、と書かれた依頼状。

重盛の書状は、今日では、わずか数点しか残っていないという。決して達筆とは思えず、要件だけを簡潔に伝えている書状だが、それが、重盛という人物の、人となりを伝えている。

教科書にも書かれ、何度もテレビや映画で題材となった、激動の時代を生きた人々。そうした人々の書状を目にすると、確かに彼らが生きていたのだ、ということを実感できる。

2012年12月22日土曜日

横浜ユーラシア文化館はおもしろい〜華麗なるインド神話の世界展


今年は、インドと日本が国交を樹立してから60周年にあたる。各地で関連行事が開かれている。その1つとして、横浜のユーラシア文化館で、華麗なるインド神話の世界、という名前の展覧会が開催された。

インドの著名な画家による、インド神話を描いた作品によって、インド神話の世界を紹介するという内容の展覧会だった。

西洋絵画の技法を学んだ画家が描くインドの神々は、妙に生々しく、そのカラフルで独特な色使いから、見るものをインド神話に世界に誘う。

インドの神々の中には、日本にも伝わった神様もいる。シヴァは大自在天、ブラフマーは梵天、サラヴァスティーは弁財天、ラクシュミーは吉祥天、そしてガネーシャは歓喜天といった具合。

また、『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』といったインドの叙事詩のシーンを描いた絵も展示されていた。

神々の様々なエピソードと合わせて、そうした叙事詩をもつインド。その豊かな物語の数々は、今日の経済発展著しいインドにおいても、映画やドラマのベースとなるストーリーとして使われている。

また、別のフロアでは、興味深いいくつかの展示が行われていた。

アンコールワットと同じ時代の、クメール王国のヒンドゥー教の神々をかたどった青銅器の数々。

明治の実業家、高島嘉右衛門に関する展示。高島は、新橋と横浜の間をつないだ、日本最初の鉄道の建設や、おなじく横浜における日本最初のガス灯を供給したガス会社にも関わった。

晩年は、事業活動から引退し、兼ねてより興味のあった易の研究に没頭し、今日の高島易断の基礎を築いた。

今ではいなくなってしまったタイプの、典型的な明治の実業家であった高島。小規模ながら、実に印象に残った展示内容だった。

また、中国の清朝に描かれた、四川省からチベットやロシアへのルートを描いた絵図も展示されていた。

未だに、だれが、どのような目的で描いたのか、わからないという。

初めて訪れた横浜ユーラシア文化館。興味深い展示品が多く、今度来た時は、じっくりとその展示品を見てみたいと思った。

国芳の系統樹からみる日本近代絵画〜はじまりは国芳展


ここ最近、とみに注目を浴びるようになった、幕末期の浮世絵師、歌川国芳。

国芳には、わかっているだけでも、80人近いの直接の弟子がいたという。その弟子、またその弟子、と辿ると、国芳を起点とした巨大な絵師、画家たちの系統樹が出来上がる。

その系統樹を一堂に集めるという、野心的な展覧会が、横浜美術館で開催された。

横長の大きな浮世絵の中で悠々と泳ぐ大クジラ。画面の半分を占め、小さな人間たちを睨みつける巨大骸骨。

国芳の大胆な構図の浮世絵の数々は、何度見ても、その大胆さに感心させられる。

そして、その一方で、ネコや金魚などを素材に描いた風刺画では、独特のユーモア感覚も遺憾なく発揮している。

国芳の画風のダイナミックさを最も強く受け継いだのは、月岡芳年だろう。

五条大橋の上での義経と弁慶の対決の図、金太郎が大きな鯉にしがみついている図、などは、国芳の影響をモロに受けている。

河鍋暁斎は、幼い時に短期間ながら、国芳の元で絵の修行をしたが、刀や銃ではなく、屁で合戦するという、大胆な発想は、国芳の影響を感じさせる。

日本画の鏑木清方は、国芳の孫孫弟子にあたる。清方の繊細な絵画は、およそ大胆な国芳の絵とは結びつかないが、会場には国芳と清方の全身の美人画が並んで展示されていた。

その清方の弟子である伊東深水の美人画の数々。深水が描く女性は、どうみても現実の女性とは思えない。本源的な女性的な物を描いている。その意味では、抽象画とも言える。

国芳の孫孫弟子にあたる、ポール・ジャクレーという画家は、明治期にフランスから来日し、多くの版画を作成した。浮世絵は、日本人だけのもの、という固定概念を打ち壊され、新鮮だった。

浮世絵から始まり、日本画、洋画まで展示されていたこの展覧会は、国芳の系統樹を辿りながら、日本の近代絵画の始まりを辿る、そんな内容の展覧会だった。

2012年12月21日金曜日

アラビア書道の魅力〜佐川信子アラビア書道展


今年、旅行で行ったイスタンブールで、アラビア書道の魅力に取り憑かれた。

折しも、六本木にあるサウジアラビア大使館で、佐川信子 第4回アラビア書道展、が開催されていたので、訪れてみた。

大使館ということもあり、空港にあるような身体検査機を通り、携帯電話を入り口で預け、ようやく敷地に入ることが許された。

絨毯が厚く敷かれた大広間のような所で、その展覧会は行われていた。

イスラム教では、偶像崇拝が禁止され、そのせいか、文字を美しく書くことが伝統的に行われてきた。

書かれているのは、コーランの言葉、アラブの格言、詩人の言葉など。

それを、丸い形や、四角い方に書いてみたり、一部の文字を大きくあるいは小さくしたりして、文字だけで、まるで絵画のように豊かな表現がされている。

日本の書を取り入れたり、字の形を動物のようにしたり、様々な造形上の工夫がされている。

会場にいた関係者の人が、懇切丁寧に、いろいろと解説してくれた。また、作者の佐川信子氏とも、言葉を交わすことが出来た。

文字を書くペンは、日本の毛筆とは違い、細い木を削って出来ている。描く文字の太さに合わせて、自ら様々なペンを作っているようで、会場にもそうしたペンが、美しいペン箱とともに展示されていた。

小規模ながら、実に印象に深い展覧会だった。

そして、ますますアラビア書道の魅力にはまってしまった自分を発見した。

2012年12月16日日曜日

日本人は何を描いてきたのか?〜美術にぶるっ!展


東京国立近代美術館の開館50周年を記念する展覧会。

その斬新な展覧会名で、新聞やテレビ、雑誌でかなり大々的に紹介されている。


この展覧会にあわせて、館内もリニューアルされ、そのお披露目でもある。

1階から4階までのすべての展示スペースを使い、洋画、日本画、彫刻などが展示されていた。ほとんどは明治以降の日本人の作家の作品だが、一部、クレー、ピカソなど、海外の作家の作品を紹介するコーナーもあった。

それにしても、4階すべてのコーナーを回るには、それなりにエネルギーがいる。じっくりと見て回るには、丸1日が必要になるだろう。

ほとんどの人は、ぶらぶらと館内を巡りながら、時折目についた作品の前で立ち止まる、といった鑑賞の仕方になる。


あまりにも、事前にメディアで影響されていたせいか、それらで紹介されていた作品を、実物で確認する、といった感じになる。

そんな不思議な雰囲気の中で、一番印象に残った作品は、エコール・ド・パリの画家として有名な藤田嗣治が描いた二枚の戦争画だった。

サイパン島同胞臣節を全うす、アッツ島玉砕、の二枚。

レオナール藤田の白はなく、陰鬱な暗い色が画面を支配している。そこに描かれているのは、死、死、死ばかり。

パリで華々しく活躍していた画家が、お国のために従軍記者となり、これらの作品を描いた。

画風、技法といったことよりも、何よりも、その描かれているテーマが私を圧倒した。この絵画を、何の価値観もなしに鑑賞することは、私にはできなかった。

藤田も、この絵を描くにあたり、それまで自分が描いた対象とは、全く違う気持ちで、向かい合ったに違いない。

藤田は、そうした状況に果敢に抵抗した痕跡を残している。死にいく人々の配置、そのポーズなどに、ゴーギャン、ピカソ、ドラクロワなどの要素を見て取れる。

しかし、どうみても、この絵では、テーマの方が、画家を、明らかに上回っている。


会場の外には、インドの建築家集団、スタジオムンバイの作品が展示されていた。建物の中に入ることも出来る。

1階のスペースは、実験場1950s、と題され、収蔵作品を中心に、東京国立近代美術館が開館した1950年代にフォーカスした展示内容だった。

原爆、国土の復興、都市や科学技術の発展、古代の発見、労働運動などの社会運動などをテーマにした作品が展示されていた。

木村伊兵衛が撮影した、今は消えてしまったかつての日本の風景が、印象深かった。

残念ながら、この展覧会では、”ぶるっ”とした感情を味わうことはできなかったが、この100年のあいだに、日本の作家が、何を描き、残してきたのか、ということを見ることができた。

2012年12月15日土曜日

生活の一部がそのまま作品に〜森山千絵 en木の実展


ワタリウムの坂口恭平の展覧会を見に行ったら、入り口に多くの花束が。

坂口恭平の支援者って、こんなにいるんだ・・・と思ってよく見たら、坂口の名前はなく、耳慣れない、森本千絵、という名前が。

館内に入り、坂口恭平の展覧会を見終わり、いつもの通り、併設のショップをブラブラしようと思ったら、いつもと様子が違う。

何やら、古い写真や品々が並び、さながら、古道具屋のような雰囲気。どうやら、これが、あの花束を贈られた森本千絵という人物の展示品らしい。

寡聞にも、森本の名前は知らなかったが、展示品をみるうちに、知らず知らず、テレビで彼女の作品を目にしていたことに気がついた。

展示品は、森本の幼い頃からの写真、思い出の品々、旅先で収集したもの、手紙などなど。それらが、”縁という木”の木の実、ということなのだろう。

最近の森本の作品に関する企画書なども展示され、そうしたこれまで森本が出会ったことのすべてが、それらの作品に反映されている、ということを表している。

それにしても、これだけの品々を、よくぞ大事に残してるなあ、よっぽど大きな家に住んでいるのかなあ、などど、余計なことを考えてしまった。

いかにして独立国家をくつるか〜坂口恭平 新政府展


以前、本屋で手にした『独立国家のつくりかた』というふざけた本を手にしたことがあった。

ペラペラと斜め読みしながら、面白いことを考える若者がいるなあ、と思った記憶がある。

筆者の名前が、坂口恭平、というかすかな記憶だけが残っており、ワタリウムで開催中の展覧会でその名前をみつけたので、足を運んでみた。

展覧会は、前期と後期に別れており、それぞれ、過去編、未来編と銘打たれている。過去編を訪れた。

過去編では、文字通り、これまでの坂口恭平の活動をまとめたもの。

会場には、路上生活者たちの暮らしをルポルタージュした時の資料や写真、インドなど海外を訪れた際の絵日記、本人が出演し、滔々と自分の主張を訴えているビデオ、また本人が非常に細かい筆さばきで描いた絵画、などが展示されていた。

坂口は、路上生活者たちの、ほとんどお金を使わない生活、にヒントを得て、その批判的な視点を、現代の政治・経済システム、特に、土地の私有、お金中心社会などに向けている。

そのゼロベース発想には、いろいろな意味で、刺激を受ける。

こうした人々が増えていけば、この国の閉塞感にも、少しは風穴が開くのかもしれない、と思えた。

後期の未来編も、楽しみになってきた。

2012年12月9日日曜日

MOT ANNUAL 2012 風が吹けば桶谷が儲かる


東京都現代美術館が、注目する若手現代アーティストを紹介するMOT ANNUAL 2012。

今年のテーマは、風が吹けば桶谷が儲かる。

森田浩彰の、人が集まる場所で、みんなで、行う、何か。

会場に、多くの紙が並べられている。1枚1枚には、ある壁は頻繁に触られている、とか、誰かの携帯が鳴っているかもしれない、などが日本語と英語で書かれている。

来場者は、その紙を持ち帰ることが出来る。

佐々瞬の展示では、小さな紙のメモが多用されている。日常の何気ないものから、アートの世界へと私たちを誘う。現実と仮想の世界が、目の前で交差しているような、不思議な感覚。

田中巧起にいたっては、会場内に作品は展示されていない。入り口で、彼のこの会期中のスケジュールが渡される。

田中は、会期期間中、いそがしく海外を駆け回りながら、様々な活動を行っているようだ。それ自体が、アートということだろう。

クリムトは、”時代にはその芸術を”と言ったが、これが、今日の日本の芸術ということだろうか。

”アート”という高い敷居は取り払われ、日常の活動そのものが、アートになる。

そもそも、”アート”あるいは”芸術”という概念が、ある体制によって作り上げられる前は、アートとは、人間が生きるために行う活動(食器を作ったり、洋服を作ったり、家を建てたり・・・)そのものだったのかもしれない。

アートと音楽ー新たな共感覚をもとめて


アートと音楽 新たな共感覚をもとめて

という名前の展覧会を見に、東京都現代美術館を訪れた。

アートと音楽?

題名について書き出すと、切りがなさそうなので、印象に残った作品から。

入り口を入ったすぐの所にあった、セレスト・ブルシエ=ムジュノの作品。直径3メートルほどの浅いプール。プールの底は、鮮やかな水色になっている。静かに水が流れるようになっていて、白い陶磁器がプカプカと浮かんでいる。

水の流れによって、陶磁器同士がぶつかる時に、キレイな音を奏でる。陶磁器の同士の動きは、複雑な水の流れによって決まるので、音は、不規則に、広いプールのあちこちで、発生する。

その次の部屋には、カンディンスキー、クレーなどの絵画作品と、武満徹、ジョン・ケージらの楽譜(?)が並べて展示されていた。

この展覧会のテーマを象徴するような、その部屋の、何とも言えない雰囲気が、実に良かった。

マノン・デブールの映像作品、二度の4分33秒。ジョン・ケージの有名な作品を、一度目は、演奏(?)するデブールのショット、二度目はそれを見ている少数の観客を写した作品。

ジョン・ケージのその作品は、演者がピアノの前に座り、4分33秒間、何も演奏しないというもの。騒音につつまれた現代社会を皮肉っているようにも、あるいは、禅に代表される東洋精神を表しているように見える。

クリスティーネ・エドルンドの、セイヨウイラクサの緊急信号、という作品。

昆虫に襲われたセイヨウイラクサは、そのストレスを感じた時に化合物を発生する。その化合物の発生度合いをグラフで表し、それを音楽に置き換えるという、面白い作品。

展示会場に鳴り響くその音楽が、セイヨウイラクサの叫び声のように聞こえる。

会場で売られていたガイドブックを兼ねている書籍を購入したが、小難しい文章が多すぎて、この展覧会の本来のテーマとは、かけ離れている内容の書物だな、という印象を受けた。

2012年12月8日土曜日

実朝のイメージ〜鎌倉文学館特別展源実朝


鎌倉文学館を初めて訪れた。由比ケ浜に望む山裾に、きれいな洋館が建っている。それが、鎌倉文学館だ。


鎌倉文学館では、生誕820年を記念して源実朝の特別展が開催されていた。鎌倉は、多くの作家が暮らしていることで知られるが、源実朝は、そうした鎌倉文士の元祖と位置付けてられていた。

といっても、源実朝本人、というよりは、詩人、俳人、作家、文学者などが、どのように実朝を見ているかを紹介する、といった趣旨の内容だった。


正岡子規、斎藤茂吉、小林秀雄、小林秀雄、太宰治、吉本隆明、そして柳美里などなど。

それぞれの実朝に対する見方は、確かに興味深いが、どれも、本当の実朝とは違うような気がした。

そもそも、自分で自分のことをわかっている人などいない。どうして、およそ800年も前の人物について、現代の人間がわかったりできるのだろうか?

誰もが、実朝を語るというよりは、自分の中にある、実朝的なもの、を探しているように思えた。


鎌倉文学館を後にして、近くの由比ケ浜に足を伸ばした。

実朝は、宋に行くことを夢見ていたという。謎の中国人にこの由比ケ浜で船を造らせ、渡航としようとしたが、船はついに海に浮かぶことはなかった。


(実朝)大海の磯もとどろに寄する波 われて砕けて裂けて散るかも


鶴岡八幡宮の中で見つけた、実朝を記念する植樹。実朝桜。

鎌倉幕府の第3代将軍。22才にして『金槐和歌集』を世に送り出した歌人。

実朝は、あまりにも、彼について語りたくなるものを秘めている。これからも、いろいろな人物が、この遥か昔の人物を思い、自分の中に、彼の虚像を作り上げていくのだろう。

2012年12月4日火曜日

ターナーの水彩画がいっぱい〜巨匠たちの英国水彩画展

日本において、ターナーの作品を目にする機会はあまり多くない。

時々行われる、海外の美術館の展覧会に置いて、何点かの作品を目にするくらいだ。

まとまったターナーの作品を目にしたければ、どうしても、ロンドンのナショナルギャラリーを訪れなければならない。

渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで行われた、巨匠たちの英国水彩画展、でターナーの作品が展示されると聞いても、せいぜい何点かの作品が展示されるだけだろうと思っていた。しかし、その予想は、いい意味で大きく裏切られた。

水彩画ながら、ターナーの作品がおよそ30点も味わえる展覧会など、そうそうあるものではない。

しかも、若き20代の頃の作品から、晩年の70才頃の作品まで、その生涯の画風の流れが、水彩画によって辿れる。

若き頃の作品、旧ウォルシュ橋を描いた作品では、小さく描かれた人物や、遠くに見える橋梁まで、実に細かい筆使いで見事に表現している。

かと思えば、晩年の有名なヴェネツィアを描いた作品では、建物や人物の輪郭は消え、すべたは光の波の中にぼんやりと浮かんでいるだけのように、描かれている。

ターナーは、それまでの”物”を描く絵画から離れ、そうした物が含まれている”世界”そのものを描こうとしたのではないか、と思えた。

ターナー以外の作家で目を引いたのは、ウィリアム・ブレイク。『ヨーロッパ』という書物のための挿画。日の老いたる者。腰を屈めた、老人の白い髪の毛が、風のせいか、まっすぐ横になびいている。背景の太陽と周りの雲が赤く描かれ、その白と赤の対比が印象的だ。

ブレイクの作品はわずか3点だが、他の2作品も、一度見たら忘れることが出来ないほどのインパクトのあるものだった。ブレイクのインスピレーションの豊穣さに、改めて感心した。

厳密には水彩画とは言えないが、バーン=ジョーンズの、ペスセウスとネレイスたち、という作品のための習作。女性の顔だけのデッサン。少ない線で、横を向いた女性の表情を見事に描いている。

水彩画ということで軽い気持ちで訪れたが、ブレイクの作品が多かったこともあり、かなり長い時間を美術館で過ごしてしまった。これだから、美術館巡りはやめられない。

2012年12月3日月曜日

いまだその全貌が知られていない鎌倉という存在〜再発見!鎌倉の中世展


鎌倉の世界遺産登録を目指したキャンペーンの一環として、鎌倉国宝館、金沢文庫、神奈川県立歴史博物館において、三館連携特別展として開催された、『武家の古都・鎌倉』展。

最後に訪ねたのは、横浜にある神奈川県立歴史博物館。それは、旧横浜正金銀行の味のある建物の中にある。


博物館ということもあり、この展覧会では、鎌倉時代以降の絵巻物、書状、そして鎌倉の発掘品などが展示されていた。

発掘品、ということ、古代の石器や鏡、というイメージが強い。しかし、鎌倉時代といっても、今からは800年ほど前の時代になる。その当時の品々は、立派な歴史の発掘品だ。

当時の鎌倉は、日本の首都だった。当時の中国は宋の時代。鎌倉には、宋から禅僧や商人など、多くの人が訪れていた。

勿論、彼らは手ぶらでやってきたのではない。鎌倉のかつての屋敷跡からは、彼らが持ち込んだ多くの品々が見つかっている。

館内には、多くの青磁の器、壷などが展示されていた。また、宋銭といわれる中国の貨幣も。

当時の日本では、そうした宋銭が日本の貨幣として流通していたという。現代でいえば、ドルのような存在だったのだろう。

北条氏の館跡からは、多くの呪いの言葉が書かれた木片が発見された。呪いの相手を焼き殺そうとでも思ったのだろうか?”火火火火・・・”と書かれた木片が印象に残った。

漆の器もいろいろなパターンのものが発掘されている。実に見事な動物や植物を描いた器もあれば、値段の安そうな、シンプルなイメージの漆の器もある。

武士というと、質実剛健、というイメージが強いが、鎌倉に暮らしていた武士たちは、漆の器や青磁などを使い、結構セレブな暮らしをしていたようだ。

今回、鎌倉にまつわる三館連携特別展を見ることで、鎌倉のこれまでのイメージが、大きく覆された。

鎌倉が日本の中心だったのは、およそ1200年から1330年のわずか130年ほどだった。しかし、そのわずかな期間に生まれた禅を中心にした文化は、その後の日本人の生活様式に大きな影響を与えた。

世界遺産への登録以前に、この国の中で、この鎌倉という地について、より理解を深める必要があるように感じた。

私たちは、鎌倉について、まだまだ知らないことが多すぎる。

2012年12月2日日曜日

かつての日本の知の中心地にて〜鎌倉興隆・金沢文庫とその時代展より


鎌倉の世界遺産登録を目指したキャンペーンの一環として、鎌倉国宝館、金沢文庫、神奈川県立歴史博物館において、三館連携特別展として『武家の古都・鎌倉』展が開催された。

金沢文庫では、金沢北条氏が四代にわたって収集した、膨大な文書を中心とした展示が行われていた。

金沢文庫は、北条実時が13世紀後半に建設した文庫。特に、宋から輸入した膨大な仏典などの書物を保存していることで知られる。そこで保存されている文書の多くは、中国ではその後の戦乱で失われているものが多い。


現在は、同じく実時が建立した称名寺という古刹の隣に、ひっそりと再建されている。外見からは、そんなに重要な施設だとはまったく想像もできない。しかし、一歩中に足を踏み入れ、展示品を目にすれば、その内容の素晴らしさに、ただただ驚かされるばかり。

まずは、この金沢文庫を建てた北条実時から、貞将までのいわゆる金沢北条氏4代の肖像画。源頼朝や代々の北条執権の、確かな肖像画は、意外にもそれほど多くは残されていないという。そうした状況にあって、金沢北条氏については、その4代すべての肖像が残っている。これも、金沢文庫の存在があってのことだろう。

金沢北条氏4代最後の北条貞将は、新田義貞の軍勢による鎌倉攻撃の戦乱の中で、壮絶な最期を遂げたと言われている。


宋からもたらされた膨大な書物の数々。すべての教典を収めた、一切経。医学書。歴史書などなど。珍しいものでは、人相についての詳細な解説書などもある。

すべて、およそ700年前に印刷された書物が、いまでも実にキレイな状態で残されている。おそらく、京都や奈良、江戸ではなく、この金沢の地であったからこそ、これらの書物は残っているに違いない。

勿論、鎌倉時代の日本の古い書物も残されている。古今和歌集、新古今和歌集、栄華物語など。珍しいものでは、道元や日蓮の真筆もある。

鎌倉の極楽寺の開山である忍性の肖像や書状。忍性という僧は、宋に船を送り貿易を行ったり、あるいは、貧しい人々のために、数々の社会事業を行うなど、単なる僧、という存在を超えた、実業家としての興味深い一面を持っている。

忍性の肖像画を見ると、鼻が大きく、失礼ながら、あまりいい男には描かれていない。それが、鎌倉時代の時代の雰囲気を良く伝えている。


 そうした数ある展示品の中でも、とりわけ目を引いたのは、鎌倉時代と戦国時代の2つの日本図。前者は、南北が逆で、しかも、日本の周りには、巨大なヘビが取り囲んでいる。

後者の日本図は、さらに不思議な図。弧を描く帯状の川のような図の中に外国が書かれており、その下に、日本が一つの島として描かれている。日蓮宗の寺に伝えられてきたもので、日蓮宗の世界観が表現されていて、興味深い。

金沢文庫の貴重な展示物を満喫したあとは、隣の称名寺を散策し、ちょうど色付き始めた
紅葉を味わった。

今は、完全に住宅地となってしまったこのあたりは、鎌倉時代は、間違いなく日本の知の中心地だった。

称名寺の長い門前道を歩きながら、歴史の流れの不思議さを、感じざるを得なかった。

2012年12月1日土曜日

中世の鎌倉の文化に浸る〜古都鎌倉と武家文化展


鎌倉の世界遺産登録を目指したキャンペーンの一環として、鎌倉国宝館、金沢文庫、神奈川県立歴史博物館において、三館連携特別展として『武家の古都・鎌倉』展が開催された。

鎌倉国宝館は、鶴岡八幡宮の境内の一角にある。この鎌倉国宝館では、鎌倉時代を代表する、仏像、彫刻、絵画、書、絵巻物が展示されていた。

蘭渓道隆、無学祖元の肖像。いずれも鎌倉時代の作品。二人とも南宋時代の禅僧。執権であった北条氏の招きで鎌倉に来て、それぞれ建長寺、円覚寺の開山となった。

彼らは、単に禅という仏教の一衆派だけを日本にもたらしたのではない。それに合わせて、磁器、絵画などの芸術品といった、南宋の文化をも日本にもたらした。

当時の鎌倉は、そうした南宋からの文物に溢れた国際的な都市でもあったのだろう。

『夢想問答集』で有名な夢窓国師の彫像。等身大で作られ、今まさに目の前に、生きた本人がいるのではないか、と錯覚してしまうほどリアルな彫像。作品は南北朝時代のものだが、鎌倉時代が生み出したリアリティ芸術を代表する作品。

夢窓国師は、蘭渓道隆や無学祖元の次の世代。南宋の禅を学び、日本独自の禅文化を作り上げた。京都の天竜寺を始め、多くの寺の庭園を設計した芸術家でもある。後醍醐天皇、足利尊氏という対立する陣営の両方から尊敬された、という政治家的な側面も持っている、興味深い人物。

いわゆる”牧谿猿”といわれる、独特の技法で猿を描いた水墨画、『猿猴図』。こちらも南北朝時代の作品。建長寺に収められている。

源頼朝、その子の頼家、元寇の時代の執権だった北条時宗など、時代を動かした人々が書いた書状の数々。鎌倉という地の歴史の重みを感じる。

そうした、鎌倉時代、南北朝時代の文物を見て、この時代の鎌倉という土地について、
もっと知りたい、という欲求を抑えきれない自分に気づかされた。

足利尊氏という人物のイメージ〜足利尊氏展より


宇都宮の栃木県立博物館の足利尊氏展を見た。

この博物館の開館30周年を記念する展覧会。地元に縁のある足利尊氏、あるいは足利家に関する多くの貴重な品々が展示された。

この博物館を訪れたのは初めてだった。片道2時間半以上もかかったが、その内容は、その時間を忘れさせるほど、素晴らしいものだった。


季節は11月の終わり。博物館のある公園は紅葉の最盛期。わざわざ遠出をして出かけたご褒美とも言えようか。


足利尊氏は、およそ300年続いた足利幕府の創始者だが、江戸幕府を開いた徳川家康に比べても、鎌倉幕府を開いた源頼朝に比べても、存在感が遥かに小さい。

『太平記』において、建武の新政を起こした後醍醐天皇に反逆し、それに対抗する形で北朝を擁護した悪役として扱われてしまったことがその遠因。幕末の水戸史観においても、尊氏は逆賊とされ、その影響は、現代にまで及んでいる。


最初のコーナーには、足利尊氏と関連する人々の座像や肖像画が展示されていた。

かつて教科書に足利尊氏像として紹介された肖像画は、今日では、その部下の高師直かその周辺の人物であると言われている。

しかし、幼い頃にこの肖像を足利尊氏として刷り込まれてしまった世代には、この絵を見るたびに、反射的に足利尊氏を連想してしまう。

次のコーナーでは、足利尊氏が書いた数々の書類が展示されていた。領地を安堵するもの、戦への出兵を促すものなど、内容は様々だが、いずれも、最後に”源朝臣 尊氏”と署名している。

今日、私たちは彼のことを”足利尊氏”と読んでいるが、当時、彼は”源朝臣 尊氏”と名乗っていたのだ。尊氏は、源義家の子、義国の子孫で、文字通りの源氏。ちなみに、頼朝は同じ義家の子、義親の系列だ。


尊氏は、仏教に深く帰依していた。尊氏が日課として描いていた、観音や地蔵の絵が展示されていた。

また、当時の高僧、夢窓国師、弟の足利直義と3人で写経した宝積経を見ると、尊氏の字が一番稚拙であることがわかる。夢窓国師が上手いのはいいとして、弟の直義が上手いので、尊氏の稚拙さが、余計目立っている。

尊氏と直義は、兄弟で力を合わせて室町幕府の基礎を築いたが、やがて対立し、和解せずまま、直義は非業の死を遂げた。


最後のコーナーには、尊氏を離れて、足利氏全体に関わる、様々な品々が展示されていた。

室町時代、雪舟と並ぶ水墨画の大家、祥啓の作品が何点か展示されていた。祥啓は、今の栃木県に生まれ、鎌倉の建長寺に長く務め、京都も訪れたことがある。

雪舟に比べて、知名度は低いが、当時は西の雪舟、東の祥啓と言われたという。

展覧会全体を通じて、足利尊氏という人物について、これまでよりも、その認識を新たにした。

2012年11月23日金曜日

アート作品の森を巡る〜第44回日展より


第44回目の日展が、六本木の新国立美術館で開催された。

日本画353点、洋画772点、彫刻276点、工芸美術625点、そして書1,117点。総数3,143点。それらが、広い新国立美術館の1階から3階にかけて、9つの部屋に分けて展示されていた。

見終わった印象は、とにかく疲れた、ということだった。

これほどの作品が並んでいると、ゆっくりと1点1点を鑑賞するという感じではない。それぞれの部屋を、ぶらぶらと歩きながら、時々、目を引いた作品の前で立ち止まり、またしばらくすると、ぶらぶら歩くといった感じ。

それは、まるで、アート作品の森を巡る、という印象だった。あるいは、ジャングルといった方がいいかもしれない。

そうした鑑賞の仕方からかもしれないが、どの作品も、”ああ、どこかで見たなあ”とか、”これはXX風の絵だな”と感じられた。

これほど、大きな美術団体の中からは、革新的な作品は、生まれないのかなあ、とも思われた。

現代の作家は、あまりにも多くの情報を与えられている。世界中の、あらゆる時代の芸術作品が、直接あるいは間接的に鑑賞でき、その技法は研究され尽くしている。

学ぶことが多すぎて、新しいものを作る、というところにまで、心が向かないのだろうか?

みる立場からすれば、私の中には、すでにアートに対する分類表みたいなものが出来ていて、目にするものを、すべてそのどれかに当てはめようとしているのかもしれない。

その意味では、自分自身のアートを見る視点についても、あらためて、考えさせられた。

一番面白かったのは、書のコーナーだった。それまで、色とりどりの絵画作品や工芸作品をみてきたせいか、3階の、一番最後の9番目に訪れたスペースに入った時に、その白と黒だけの世界が、実に新鮮だった。

他のアート作品に比べて、制約条件が多い書だからこそ、作家の個性が、際立って表現されるのかもしれない。

毎年、この時期に開かれる日展は、個々の作品を楽しむというよりは、アートそのものについての、現状や本質を考える、いい機会でもある。

2012年11月18日日曜日

この国は文字の王国だ〜五島美術館名品展から


2010年秋から、およそ2年の期間をかけて改修のため閉館していた五島美術館が、この秋に再開された。

その再開に合わせて、4回にかけて、その主要な所蔵品を紹介する、”時代の美”と題された特別展が開催される。その1回目は、奈良・平安編。

その第1回目の目玉は、何と行っても、この美術館を代表する所蔵品、平安時代後期、12世紀に作成され、日本で一番古いといわれる絵巻、「源氏物語絵巻」。

この作品は、開催中の後期に展示された。前期に訪れた際は、人影もまばらで、ゆっくりと鑑賞できたが、後期はさすがに凄い人出。「源氏物語絵巻」の前には、長い行列が出来ていた。

当館の所蔵する、鈴虫一、鈴虫二、夕霧、御法の4つの全てが展示されていた。

およそ千年前に描かれた絵巻物を目にすると、よくぞ今日まで、失われずに残されてきたなあ、と思わざるを得なかった。この物語に対する、この国の人々の、深い思い入れや愛情を、改めて感じさせられた。

中でも、夕霧の巻の絵画は、光源氏が、自分の正妻、女三宮と、自分の息子の友人、夕霧との不倫の証拠となるラブレターを見つける、という決定的な場面。女三宮は、慌ててその手紙を奪おうとするが、すでに光源氏はその内容をまさに読んでしまったところ。

今日の、テレビのホームドラマにもよく登場するようなシーン。人間の本質は、千年たっても全く変わっていない。

”引目鉤鼻”といわれるその人物表現は、人物の顔立ちで、その人物を区別するのではなく、その人物の洋服や、行動でその人物を区別する。この「源氏物語絵巻」はその典型。物語を知っている人物が見れば、どう見ても同じようにしか見えないそれらの人物を、きちんと特定できてしまう。

そうした絵もさることながら、詞書もすばらしい。文字通り、遠目には、みみずがはっているようにしかみえない、そのやわらかい漢字まじりの仮名の表現。残念ながら、今日の私たちの多くには、一部を除いては、その文字さえ判別できない。単に、その造形的な美しさを感じることしかできないのが、悲しい。

それ以外の展示品では、全般的に、文字に関する展示品が多かった。

長屋王、光明皇后といった天皇家の人々が、願いを込めて収めさせた膨大な写経。すべて、8世紀のもの。当時の、仏僧達が、一字一字、丁寧な表現で、仏典を写している。

文字の価値が薄れつつある現代人には、単なる漢字の羅列だが、当時これを書かせた人にとっても、書いた人にとっても、仏典の言葉の一つ一つには、大きな力が宿っていた。

この国の人々は、もともと文字をもたなかった。言葉は、口から口に伝えられるものとされ、それを文字にするという考えはなかった。

中国から文字というものが伝わり、その文字に、自分たちがそれまで使っていた言葉を当てはめていったが、やはり、どこかしっくりしないものを感じたのだろう。中国の漢字をもとに、当時の人々は、この国特有の文字を作り出した。

角張った漢字に比べ、その”仮名”といわれる文字は、筆で描くと、続けて書くことができ、その筆跡の美しさを、やがて競うようになっていった。

展示会場には、その名手達、紀貫之、藤原行成、藤原公任、小野道風、藤原俊成、藤原定家などの、美しい、ひらがなの古筆が展示されていた。

漢字、ひらがな、そうした文字を、この国の人々は、中国の影響を受けながら、自分たちの独自性を加味しながら、書き、それを鑑賞してきたのだ。

その意味では、この国は、文字の王国、とでも言うことができる。

五島美術館の再開記念の収蔵品点は、全4回。来年の3月まで続けられる。しばらくは、上野毛の静かな住宅街に佇む、この小さな美術館に詣でる習慣が続きそうだ。

2012年11月17日土曜日

あまり知られていない明・清代の水墨画の世界〜泉谷博古館


六本木一丁目の泉ガーデンタワーの傍らに、ひっそりと存在する泉谷博古館。その10周年を記念する特別展の第4弾では、中国の明、清代の個性的な画家の作品を中心にした、住友コレクションが展示された。

清の時代には、異民族による王朝の成立、西洋の影響を受けて、宋以来の伝統的な水墨画とは違った、独自の水墨画が生まれた。

この展覧会では、日本では、あまりまだポピュラーではない、そうした水墨画の数々を、十分に楽しむことが出来た。

展覧会の目玉になっていたのは、八大山人の「安晩帖」。ほぼ真四角の手帖の1ページに、鳥や猫、植物などが、まるで抽象画のような、独自の筆さばきで描かれている。

日本人が特に好む、牧谿のようなその水墨画の数々は、確かに見応えがある。およそ20枚ほどある作品は、会期中にページをめくり展示替えされている。

私が訪れた際は、木の枝に、一羽の鳥が止まっている、という図が展示されていた。一筆ので描かれた枝の線、その上に止まる鳥は、墨の太い線と、細い線で描かれている。ほとんどが何も描かれていない空白だが、その微妙な配置は、まさに絶妙。

八大山人は、明末期に王族につながる家庭に生まれたが、清王朝の成立で状況が一変し、複雑な人生を送った人物。彼には、絵を描く明確な理由があったのだろう。

同じく清時代の漸江の「竹岸蘆浦図巻」。水墨画には珍しく、ほとんどが細い線だけで描かれている。無数の竹の葉を、細かい線で丹念に描いている。これまでに見たことがないような、不思議な水墨画だ。

沈銓の「雪中遊兎図」。中国では無名の画家でありながら、日本の長崎で3年暮らし、円山応挙などの京都の画家に大きな影響を与えた。その鮮明で色鮮やかな画風は、伊藤若冲の作品にもその影響の跡を残している。

展覧会の出品作の中で、唯一の国宝。南宋時代の「秋野牧牛図」。文字通り、秋の野に、牛を放牧している風景。人物はわずか二人。一人が相手の耳を掻いてあげている。数頭の牛達は、歩いたり、身を横たえたりと、思い思いに秋の日をくつろいでいる。

これぞ、宋代の水墨画の典型といえる、人間と自然の理想を描いた心象風景。いつまでも見ていたい水墨画だった。

奇跡を目にした幸福をかみしめる〜日本民藝館における沖縄の紅型展より


日本民藝館で、開催された、琉球の紅型、展を見に行った。ふだんは、作品の保護のために展示されていない貴重な紅型コレクションが、沖縄復帰40周年を記念して、特別に公開されていた。

かつて、沖縄の紅型を、初めて目にした時の衝撃を、言葉で表現することは、至難の業だ。同じ衝撃を味わったことがある人は、この言葉に、同意していただけると思う。

民藝運動の主導者で、この日本民藝館を創設した柳宗悦は、紅型も含めた沖縄の織物について、かろうじて、次のように表現している。

(織物において)”沖縄に匹敵し得る地方は、日本の何処にもありません。”

その唯一無二の沖縄の紅型が、日本民藝館の大展示室に鮮やかに並べられている光景は、まさに圧巻だった。

紅型を前にして、まず眼に飛び込んでくるのは、その色だ。黄色、赤、ピンク、青など、日本の他の地方では、あまり目にすることのない原色が、とにかくまず私の眼を奪う。

そうした鮮やかな色合いは、マレー地方やシンガポールでよく目にする、華僑のプラナカン文化の器や着物を連想させる。

そして、次に、そこに表現されている様々な文様に眼がいく。日本人には馴染みの鶴や亀、菖蒲や松、といったものもあれば、竜などの中国風なものもあり、沖縄の風景を表現したものある。

そうした紅型を見ていると、これは、中国や日本の文化とは、明らかに異なっている文化の産物であるということがよくわかる。

かつて沖縄は、中国や日本のみならず、東南アジアの国々と交易を行っていた、独立した王国だった。色鮮やかな、他に類を見ない、紅型の数々は、明確に、そのことを証明している。

しかし、太平洋戦争による沖縄戦は、およそ10万人にも上る沖縄の民間人の死者とともに、紅型を始めとする貴重な沖縄の文物を破壊してしまった。

今日残っている紅型の多くは、戦前に本土に持ち込まれ、保管されてきたものだ。中でも、柳宗悦が持ち帰った日本民藝館のコレクションは、その存在自体が奇跡、とも言われる貴重なもの。

今、このブログを書きながら、そうした奇跡を目の当りにできた幸福を、今さらながに、一人かみしめている。

2012年11月11日日曜日

「間」と「メリハリ」の琳派芸術


日比谷の出光美術館で、琳派芸術Ⅱ、という展覧会が開催された。

これは、2011年3月に開催中だった展覧会と同じ名前だが、東日本大震災のため途中で中止され、構成を少し変えて、再び開催したもの。震災の影響は、こんなところにも及んでいた。

会場の入り口付近に展示されていた、酒井抱一の風神雷神図屏風。俵屋宗達、尾形光琳のものとは、少し趣を変え、やや軽めに描た風神雷神図。

しかし、この3人に共通するのは、独特な空間感覚、いわゆる”間”。日本の芸術一般に共通するこの”間”の感覚を、琳派の作品では、より強く感じる。

左右に分かれた風神と雷神を微妙な距離に分ける間、そして、両者は横一線ではなく、かすかに上と下にずれて配置されている。

酒井抱一の八ツ橋図屏風。こちらも尾形光琳の作品を元にしている。この作品では、橋の両側に菖蒲の花が連なって咲いているが、ところどころに、何もない空間が配置されている。その微妙な間こそが、この作品に独特なリズムを与えている。

伝統的な西洋の絵画では、絵の中に何の色も置かれていない空間などありえない。それは、神の作ったこの世界が完璧でないことを意味し、神への冒涜となる。

仏教においては、色即是空、この世のすべてのものは、すべて幻。恒久的なものは存在しない。仏教思想に影響を受けた中国や日本の絵画では、描かれる風景は、客観的なものではなく、すべて主観的なもの。自分の心に見えるものしか描かない。

琳派の作品には、そうした感覚が、より強く現れている。

酒井抱一の紅白梅図屏風。そこでは、不自然な形に折れ曲がった梅の木が、墨の線で描かれているが、それは、梅の枝を描いているというよりは、墨の筆使いの跡そのものを、表現したかったようにも見える。

酒井抱一の十二ヶ月花鳥図貼付屏風。十二枚の屏風絵に、梅や紅葉、鶯など、各月を代表する植物と鳥などが描かれている。同じ屏風の中に、木自体はざっくりと墨だけで抽象的に描きながら、そこに咲いた花は、おしべやめしべまで、細かい筆使いで丹念に描かれている。

その描き分けの感覚が素晴らしい。まさしく、「メリハリ」を効かせた表現も、琳派の大きな特徴の一つだ。

その他にも、尾形乾山の美しい色絵の各皿や、鈴木其一の素晴らしい雪を描いた雪中竹梅小禽図などもあり、江戸琳派の作品を中心にしたそれらの展示品から、琳派芸術の神髄を味わうことが出来る展覧会だった。