その展示の内容が、乃木坂のギャラリー間において、再構成した形で展示された。
2011年3月11日に起こった東日本大震災は、日本人に、多くのことを考えさせた。とりわけ、建築家にとっては、建物が次々に津波に流されていく光景、その後の何もない地に建てられた仮設住宅、そこでの人々の暮らしなどは、改めて、建築とは何かを考える大きなきっかけとなった。
建築家、伊東豊男は、陸前高田の地を訪れ、”ここに、建築は、可能か”というテーマをつきつけられた。
みずから設計した「みんなの家」の第1号は、なんの変哲もない集合所だった。そこには、建築家の個性といわれる片鱗のかけらもない。世界中にその名の知られた伊東が、そのような建物を設計したということに、東日本大震災という災害の大きさが表れている。
伊東は、その2つ目の「みんなの家」の設計を、若い3人の建築家、乾久美子、藤本壮介、平田晃久に託した。ヴェネツィア・ビエンナーレに展示したのは、その設計から、完成に至るドキュメンタリーだった。
会場の壁には、陸前高田出身の写真家、畠山直哉が撮影した、陸前高田の何もない風景が一面に貼られている。
入ったすぐの所には、初期の3人の設計案が展示されている。まだ、それぞれの個性が前面にでた、ある意味でバラバラな住宅模型。
会場の右手には、徐々に3人の案がまとまりつつある過程が再現されている。
現地を訪れた3人は、現地の人々との会話の中で、設計のアイデアを得た。津波による塩害で伐採を余儀なくされた杉の木の存在が、大きな影響を与えている。
その上に、設計案の模型が展示されている丸太の木々も、陸前高田の杉の木。実際に、ヴェネツィアでも、陸前高田の杉の木を使って展示が行われた。
そして、ついに完成した、「みんなの家」の最終模型。
最終案の作成には、メンバー全員が実際に現地を訪れ、現地の人々の声も取り入れながら行われた。
会場の上の階には、現地での建築の様子を、畠山が撮影した写真が展示され、ビデオ映像も流されている。
ここに、建築は、可能か、という悲愴にもとれるコンセプトのもとに始められたプロジェクトだが、陸前高田の地における、伊東をはじめとしたメンバーたちの、はじけるような笑顔の写真が、強く印象に残る。
それは、なによりも、物を作るということの楽しさを、表しているようだった。
少し斜めにこのプロジェクトを見ることもできるだろう。結局は、建築家たちの自己満足だったのではないか。ビエンナーレで金獅子賞をとるという、売名行為だったのではないか、などなど。
しかし、伊東の、ビエンナーレにむけて、次のコンセプトの中のこの言葉に、このプロジェクトのすべてが表されているように思えた。
個による個としての建築家のあり方を根底から問い直そうと試みる。
東日本大震災によって、多くの尊い命、多くのものが失われてしまった。それは、あまりにも多すぎた。
しかし、そこから得られたものも、わずかながらでも、あったのではないか。
会場を後にしながら、そんなことを考えた。
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