2013年3月20日水曜日

茶道具の行方〜曜変・油滴天目−茶道具名品展(静嘉堂文庫)


静嘉堂文庫創設120周年、美術館開館20周年を記念する特別展のシリーズ。最後は、曜変・油滴天目−茶道具名品展、と題し、岩崎弥之助・小弥太の親子2代にわたって収集された、茶道具の名品の数々が展示された。

茶の湯となると、さすがにファンの裾野が一気に広がるようで、いつもは休日でも閑散としている会場が、多くの人で賑わっていた。

そうした人々のお目当ての1つは、やはり、曜変天目(稲葉天目)だろう。

12〜13世紀の南宋時代、今の福建省の建窯で焼かれた。徳川家の持ち物だったが、3代将軍家光から、春日局に送られ、その後は生家の稲葉家に長く伝わっていた。

世界に3つしか残っていない曜変天目は、そのすべてが日本にあるが、この稲葉天目が、最も鮮やかな曜変であるといわれる。目の前にすると、その鮮やかには、思わず目を奪われる。ずっと見ていると、その青い世界の中に、引き込まれていくような錯覚さえ覚えてしまう。

鎌倉時代から南北朝、室町時代にかけて、当時の支配階級であった有力な武士階級の人々が、こうした茶道具を、中国から多く買い入れた。

会場には、同じ時代に焼かれた、油滴天目、灰被天目、玳皮天目なども展示されていた。

やがて、戦国時代から安土桃山時代にかけて、堺の商人であった武野紹鴎が侘び茶を始め、同じく堺の商人、千利休がそれを大成する。

その武野紹鴎が所持したという猿曵棚。中国から輸入されたいわゆる華麗な唐物とは違い、木の素材をそのまま活かしたシンプルな作りは、侘び茶というものの性格をよく表している。

この猿曵棚は、その後、古田織部を通じて、伊達家に伝わり、明治維新後、その他の大量の茶道具一式とともに、岩崎家に売却された。

武野紹鴎が所持していたことから、その名がついた茶入、紹鴎茄子。その後豊臣秀頼が所持していたが、大阪城の戦火の中で粉々に砕けてしまった。家康がその修復を藤重藤元・藤厳親子に命じ、漆で繋ぎあわせることで、見事に再現し、今日でもその美しい姿を見ることが出来る。

千利休の茶杓、銘は「両樋」。茶杓の先の折れ曲がりがやや長い、いわゆる利休好みの茶杓。

利休に続く、古田織部、小堀遠州らも、自らの好みを明確に主張し、新たな茶の湯の模索を続けていった。

江戸時代になると、大名たちが、多くの茶道具を買い求め、熱心に茶の湯を学び、茶会を行うようになった。

中でも、出雲藩の松平治郷(不味)は、茶道具の収集家として知られる。その不味公が作らせた、金箔を大胆に使用した絢爛豪華な、片輪車螺鈿蒔絵大棗。そこには、利休の侘び茶の精神はない。これこそが、不味好みということだろう。

その後、明治時代になると、多くの大名家は没落し、岩崎家を代表する明治の財閥グループにその茶道具を売り渡した。

この静嘉堂文庫の記念展では、こうした茶道の流れを、縁のある作品を通じて、概観することが出来た。

0 件のコメント:

コメントを投稿