2013年3月16日土曜日

ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家(横浜美術館)


横浜美術館で、ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家、という展覧会が開催された。

ロバート・キャパは、世界で最も有名な写真家の一人だろう。しかし、ゲルダ・タローという名前は、それに比べてあまり知られていない。

ゲルダは、キャパの恋人だった。ドイツのシュトゥットガルトでポーランド系ユダヤ人の子として生まれ、ナチスの迫害を逃れパリに移り住み、そこでアンドレ・フリードマンに出会った。

アンドレ・フリードマンは、駆け出しの報道写真家だったが、ゲルダのアイデアで、アメリカの映画監督フランク・キャプラの名を借りて、ロバート・キャパと名乗った。

ゲルダも、本名は、ゲルタ・ポホレリという名で、グレタ・ガルボと岡本太郎からヒントを得て、ゲルダ・タローという名に変えた。

最初のコーナーは、Part Iとして、ゲルダの写真が80枚程展示されていた。これまでは、それらの写真は、キャパの写真として紹介され、ゲルダとして展示される機会は、あまりなかったという。

ゲルダの写真は、キャパの写真に比べると、構図や演出をあまりせず、対象そのものを、そのまま写しているように見える。

写真のほとんどは、ゲルダがアンドレとともに取材した、スペイン内戦の様子を撮影したもの。

今では、ガウディの建築などで世界的に有名な観光都市となったバルセロナ。ゲルダが1936年に撮影した写真の中には、その華やかな面影は全くない。戦場そのものだ。

ゲルダは、1937年に、そのスペイン内戦の中で、戦車同士の衝突事故に巻き込まれ、わずか27才で亡くなった。アンドレは、その悲しみから、数日は部屋で泣き続けていたという。

ゲルダは、始めは、自分の写真を、アンドレと同様に、キャパの名前で発表していたが、次第に独立し、ゲルダの名前で写真を発表するようになっていた。もしかしたら、二人の間には、二人にしかわからない、葛藤があったのかもしれない。

後半のPart IIは、ロバート・キャパ(アンドレ・フリードマン)の作品が、200枚程展示されていた。

ゲルダと活動していたスペイン内戦の様子を撮影した写真の数々。戦場の写真もあるが、バルセロナやマドリードの街中の様子を写した写真も多い。

そして、キャパの最も有名な写真のひとつ、若い兵士がうたれる瞬間の写真。その前には、多くの人集りが出来ていた。

1938年に、日本軍の侵略と内戦に苦しんでいた、中国で撮影された写真。一般の中国人の他に、孫文夫人、蒋介石、蒋介石夫人、周恩来などの歴史上の人物も撮影している。

そして、こちらもキャパの代表的な写真。ノルマンディー上陸作戦の兵士を写した写真。キャパは、上陸作戦の先頭を切った部隊とともに、オマハ・ビーチに上陸し、その写真を撮影した。

写真は、ちょっとピンぼけ(Slightly out of focus)している。キャパは、自伝の題名に、そのように名付けた。

自伝の中で、キャパは率直に、その日の恐怖を語っている。その恐怖の中で撮影されたこの写真によって、キャパの名は、伝説になった。その後の、多くの報道写真家を目指した若者たちは、この写真のような、あるいはそれを越える写真を撮ることを夢見た。

キャパは、戦後の1954年に日本も訪れて、多くの写真を撮影している。東京駅、東大寺、大阪の四天王寺、京都の桂川などなど。

その後、内戦のヴェトナムを訪れ、その地で命を落とした。

会場の最後には、死の直前に撮影した、戦場の写真が展示されていた。低い草の生えたなだらかな平原を、少し広がりながら歩く兵士の一団を撮影している。

戦争がなければ、のどかに散歩できるような平原だが、地雷や敵の攻撃を警戒する兵士たちの緊張感が、その背中から伝わってくる写真。

一度シャッターを押せば、そこに写るものは、誰が撮影しても同じ。しかし、そのシャッターを押すまでに、その写真家のすべてが表れる。

ロバート・キャパという名前の写真家の作品の数々は、何よりも増して、写真というものの本質を表している。

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