2013年1月27日日曜日

茶道具と歴史上の人物の書簡に触れる〜時代の美第3部桃山・江戸編


昨年、リニューアルオープンした五島美術館。その再開を記念したシリーズ展、時代の美 第3部 桃山・江戸編を見た。

展示内容は、絵画、墨跡、茶道具などが中心だった。

俵屋宗達が下絵を描き、本阿弥光悦が筆を振るった、鹿下絵和歌巻断簡、新古今和歌集と和歌朗詠集の色紙帖。

絵が中心でもなく、和歌あるいは書が中心でもない。そうした個々の要素が一つの作品となった時、例えようもない美しい世界が出現する。

烏丸光広筆の小倉山荘色紙和歌帖。和泉式部など三十六歌仙の和歌を、一人一枚づつの色紙に描いたもの。その和歌や作者に応じて、書の様式を変えて描いている。

江戸幕府の御用絵師となり、その後の狩野派の繁栄を気づいた狩野探幽。その探幽が東海道の道中で描いたスケッチ帖。簡素ながら、探幽の絵心がうかがえる。

織田信長、豊臣秀頼、石田三成、という歴史上の、それぞれ因縁のある人物の書簡。芸術的な価値はあまりないのだろうが、それらの書簡を目の前にすると、歴史の授業で学んだこと、映画やテレビドラマなどで見たエピソードなど、様々なものが、心の中に思い浮かんでくる。

また、代表的な茶の名人、千利休、古田織部、小堀遠州の書簡も展示されていた。

利休の書は、あまり字を崩さず、実直な性格が伺える。織部の書簡は、漢字が多いせいもあるが、横の動きが多い。遠州は書の名人としても知られるが、手紙ということもあり、シンプルながら、華麗な筆さばきが伺える。

賀茂真淵直筆の、延喜式の注釈書。実に丹念に、今日の普通の人でも十分に読める楷書体で、細かい字で書かれている。

この展覧会のハイライトは、五島美術館が誇る、茶道具の名品の数々。オリジナルをコピーした茶碗、水差しなどを、茶会で使用したことがあるが、そのオリジナルを目の前にすると、不思議な感覚を覚える。

中でも、破袋という銘のついた、古伊賀水指は、強い印象を残した。大振りの水指で、歪な形で、ところどころ、表面がひび割れしている。文字通り、破れた袋のように見える。

古田織部が、”今後、このような水指は生み出されないだろう”と絶賛したという。

五島美術館の特別展は、次回は中国・朝鮮編。日本編は今回で最後。

3回の展覧会を通じて、この国を支配してきた人々が、どのようなものを尊び、美しい物と考えてきたのか、それを概観することができた。

2013年1月26日土曜日

もやもやとした感じ〜DOMANI・明日展

文化庁の支援により、海外で研修を行った作家を紹介する、DOMANI・明日展が、六本木の新国立美術館で開催された。

会場の一部は、撮影が可能になっていた。


フランスで研修した、神彌佐子。日本画の画材を利用して、色鮮やかな世界を作り出している。


オーストリアのリンツで研修した、陶芸家の青野千穂。まるで、布かやわらかい粘土で作成したように見えるが、れっきとした陶芸作品。


アメリカのロードアイランドで研修した、行武治美。ガラス片を床に並べ、その反射光が、壁に映る、という作品。


ドイツのベルリンで研修した、平野薫。お古の衣装を解体し、その意図を使って再び衣装を作ったという。


同じく、ドイツのベルリンで研修した、塩田千春。使い古された靴を赤い糸で繋いだ作品。1つ1つの靴をよく見ると、持ち主だった人が、紙片にメッセージを残している。

その他の作家は、写真、絵画などの作品が多かった。それらの作家コーナーは、撮影が禁止になっていた。

作家の経歴などを見ると、1960年代、70年代生まれの作家が多く、自分と同じ年代だったことに気がついた。

作品を見ながら、何となく、もやもやとして感じを抱いていたのだが、その原因が、わかったような気がした。

2013年1月25日金曜日

アーティスト・ファイル2013を見る


新国立美術館で開催された、アーティスト・ファイル2013、を見た。

最初のスペースにあったのが、韓国生まれのヂョン・ヨンドゥの作品。子供が自由な発想で描いた作品をもとに、撮影された写真作品が、数点と、老人の語る昔話を映像化した作品が展示されていた。

子供と老人という対照的な年代の発想をベースに、それを具体的な作品に作り上げる、という手法が面白かった。

國安孝昌の作品は 、木片を積み上げた、大きな壁のようなもの。展示スペースを占領し、圧倒的な存在感でこちらに迫ってくる。部屋中に充満する、木の匂が、印象に残る。

中澤英明は、テンペラで描かれた子供の肖像を、数多く展示していた。

リアルに描かれた子供の絵が並んでいるが、時々、一つ目小僧、などのグロテスクな絵が飛び込んでくる。子供の顔も、よくよく見ると、かわいいというより、人を食ったような、不気味な顔に見えてくる。

子供=かわいい、という固定概念に、少しだけ楔を打ち込むような、微妙なバランス感覚がいい。

利部志穂は、ハリガネやアルミ編などの、何気ない素材を使って、展示スペースに、建築物のような不思議なオブジェクトを出現させた。

鑑賞者は、その間を抜けて進むのだが、その歩みを妨げるように、所々に、物が置かれている。

身の回りの物を、組み合わせることで、異化し、その存在を、特別な物にするという、古典的だが、普遍的な手法で、鑑賞者を、自分の世界に誘い込む。

インド生まれの女性のアーティスト、ナリニ・マラニ。部屋中に並べられたパネルに、人物、動物、ヒンドゥー教の神々などが、独特な表現で描かれている。中央の女性のへその緒は放射上に広がり、その先には胎児がぶら下がっている。

もう一つは、影絵のような手法を使って、壁に写された映像と、その影絵が重なる、という作品。インドらしい音楽が鳴り響く部屋の中で、これまで経験したことのないような、空間感覚を味わえる。

志賀理江子は、宮城県名取で暮らしながら撮影した写真を、木の枠に貼って、立て看板のようにして、部屋中に、まるで森のように並べた。

その写真の合間を縫うように進むのだが、あまりに部屋に詰め込みすぎているために、すべての写真を見ることは、ほぼできない。

それらの写真は、ただ壁に並べられるのでなく、立てかけて展示されることで、単なる写真ではなくなっていた。

イギリス生まれのダレン・アーモンドは、親類の死を悼むために、本人自身の映像と、本人が好きだった物や場所の映像を、同じ部屋の別々の場所に写していた。そんな追悼の仕方もあるのだなあ。

共通のテーマがある訳ではなく、国籍や、その表現方法も様々だが、この展覧会を見た人は、確実に、何かを見つけて会場を後にしたはずだ。

2013年1月22日火曜日

帰ってきた東京ステーションギャラリー〜始発電車を待ちながら展


開館以来、個性的な展覧会を数多く開催してきた東京ステーションギャラリーは、東京駅の長い復元工事の影響で、長期にわたり休業していた。

このたび、その復元工事も終わり、この美術館も、リニューアルオープンした。

以前は、丸の内側の中央付近に入り口があったが、今度は、丸の内側の北口の改札口のすぐ近くに移動になった。

リニューアルオープンを記念した最初の展覧会は、始発電車を待ちながら、と題して、東京駅、あるいは鉄道をテーマに、9組の現代アートの作品が展示された。

秋山さやかは、自分が移動した場所を、色鮮やかな糸で、地図に刺繍した作品を展示していた。東京駅の周辺、東京から山形、など。

刺繍する糸は、その移動している場所で、拾ったり入手した物らしい。写真や、日記とは違った記録の仕方が、興味深い。

クワクボリョウタは、暗い部屋の中で、LED電気を搭載した電車の模型が、いろいろなオブジェの間を走り抜けていくという作品を展示。

暗い部屋の壁に、電車の光が、オブジェの影を映し出し、幻想的な風景を演出する。理屈なく、ただただ、単純に見て楽しめる。


廣瀬通孝の作品は、スイカなどのカードをデバイスにかざすと、カードの記録されている乗車記録を、地図上に上に、光の帯として再現する。

私も自分のをかざしてみたが、ほとんどは、毎日の通勤の記録なので、同じ所をいったりきたりで、全く面白みがない。

ヤマガミユキヒロの作品は、東京駅の構内などを写真に用に精密に描いた絵の上に、同じ場所を撮影した映像を重ねて写す、というもの。

下地になっている絵画と、その上に写される映像の重なり具合が、見る物に不思議な感覚を与える。


東京駅が新しく生まれ変わったことで、多くの人が東京駅構内を訪れている。美術に興味のない人も、何となく入ってみようと思ったのだろう。失礼ながら、会場には、普段はあまり現代アートを鑑賞しないのではないか、と思われる人々が溢れ、不思議そうに作品を眺めていた。

リニューアル記念ということで、有名な作家や、古典的な作品を並べるのではなく、上に紹介したような、一般的には無名の、現代アーティストに作品を依頼した、ということが、この美術館のコンセプトを表しているようで、実に頼もしかった。

今後も、個性的な展覧会を企画することを、強く望みたい。

2013年1月20日日曜日

東洋美術の長い旅に出よう〜東京国立博物館 東洋館


東京国立博物館には、年に数回通っている。しかし、入り口を入って右手のある東洋館を訪れたのは、少なくとも、この10年間、記憶にない。

おそらく、他の人も、あまり訪れなかったのだろう。このたび、もっと多くの人に訪れて欲しいということで、リニューアルした。

リニューアルのテーマは、旅。

もともと、1968年に谷口吉郎によって設計された東洋館は、その構造が複雑だった。建物が横長で、それぞれの階を移動して、他の階に移動するには、長い距離を歩いて、端っこにある階段へ行かねばならない。

ところどころ、他の階に移動する小さな階段があるが、場所の配置が不規則で、まるで迷路に迷いこんだ感じがする。

そうした建物の構造を活かして、館内を歩き回ることを、旅、と表現したのだろう。その試みは、成功している。


館内の作品を、一部のものを除いて、自由に撮影できるのも、嬉しい。

これは、4階の中国絵画のコーナーに展示されていた、南宋の夏珪の作と伝えられる小さな水墨画。



こちらは、宋代の李氏という画家による、瀟湘臥遊図鑑。国宝。

遠くから眺めると、湖と山々の風景だけが見える。しかし、目を近づけると、小さな家々や、橋を渡る人々、などの細かい風景が見えてくる。

離れてみたり、近づいてみたり。この絵の前では、いくら時間を費やしても、絵の全体を見た気分になることができない。


清の乾隆帝は、この絵をとりわけ愛した。本人の賛が、巻の右端に書かれている。

この”呑”は、包み込んでいる、という意味だろう。気が、雲夢を包み込んでいる、といったところだろうか。

この絵の持つ不思議な力を、乾隆帝は、気、と表現している。


地下1階に、リニューアルに合わせて新設された、クメール美術の部屋。これまでは、展示するスペースがなかったという。

これほどの作品達が、これまで展示される機会を与えられなかった、ということが、にわかには信じがたい。


アンコール遺跡から、飛び出してきたような、細かく、独特の感覚に溢れたクメール彫刻には、思わず目を奪われる。



こちらも、地下1階にある、インドの細密画コーナーにあった作品から。


ペルシャの細密画の影響を受けて、ムガール帝国下で、独自の発展を遂げたインドの細密画。これほど細かい線を、いったい、どんな筆で描いたのだろう。

今回は、特別展のついでに寄ったので、すべてのコーナーをじっくり見ることは出来なかった。

1日あるいは半日をかけて、ゆっくりと見て回るもよし、他の展覧会のついでに、目についた作品だけを楽しむもよし。

いずれにしても、しばらくの間は、東洋館詣でをすることになりそうだ。

円空の作り上げた宗教世界〜特別展 飛騨の円空


円空の木彫りの仏像は、一度見たら、二度と忘れることができない、強烈な印象を残す。

円空の彫った仏像は、全国におよそ5,000体が確認されているというが、東京国立博物館で行われた特別展では、そのうち、円空に縁の飛騨の千光寺とその周辺に伝わる仏像、およそ100体程が展示された。

会場で、一際目を引いたのは、中央に展示されていた、金剛力士立像。立ち木にそのまま彫刻したと伝わり、2メートルを越える。

円空は、通常、丸い木を真ん中で二つに割って、丸い方を彫るので、こうした彫り方は珍しい。

顔だちは目、鼻、口が彫られているが、それ以外の体の部分は、ほとんど彫られていない。まるで、木の中から、仁王像が立ち上がってくるかのような、ダイナミックな彫像になっている。

三十三観音立像。60〜80センチ程の観音が31体で構成されている。体の線をシンプルに彫っただけの像。まゆげも目も、それぞれ一本の線で彫っただけ。

千光寺に収められ、住民が病いになった時などに、家に1体持ち帰り、回復を祈ったという。円空は、訪れた土地で、地元の人々の願いに応じて、仏像や神像を彫った。

千手観音菩薩立像。千本とまでは行かないが、50本程の手が別に彫られて組み合わされた、円空には珍しく、複雑な構造の立像。その表情は、最低限の線で彫られ、やさしく微笑んでいる。

柿本人麻呂像。仏でも神でもない。形も、円空特有の立像ではなく、座って頭を右手にもたげている。左右対称ではない、その形が、深い印象を残す。

円空は、12,000体の彫像を彫ることを発願したという。現在、そのうち、5000体ほどが見つかっている。円空は、自らの発願を実現したのだろうか?

今日、私たちは、円空のそうした彫像を、芸術作品として鑑賞する。無論、円空は、そのような意図で作ったのではないだろう。

しかし、円空の彫像に取り囲まれていると、円空が、その木の中から呼び出したものが、私たちを不思議な感覚に陥いらせる。それは、幾多の教典に劣らず、私たちを、精神的な世界に誘う。

2013年1月18日金曜日

田中のデザインした世界に暮らす私〜田中一光とデザインの前後左右


日本を代表するグラフィック・デザイナー、田中一行の没後10年の回顧展が、六本木の21_21 DESIGN SIGHTで開催された。

田中のポスター、デザインした書籍などが、親交のあった安藤忠雄の設計した美術館に展示されていた。

この美術館が、田中のこの回顧展のために建てられたかのように思われた。


1930年、奈良県に生まれた田中は、当時、完成で活躍していた芸術家で、具体を主宰していた吉原治良に憧れていた。

その吉原から、自分が作成したポスターに注目され、助手になるように声をかけられ、体が震えるほど興奮したということが、紹介されていた。

このエピソードを知り、田中のデザインの原点に、触れたような気がした。



かつて見た美術展のポスター、かつて読んだ本、自宅で使っている無印良品の品々、今でもよく買い物をする店の買い物袋・・・

そうした品々を、改まった展覧会で目にすることは、私にとって、実に奇妙な体験だった。

そして、私は気がついた。私は、紛れもなく、田中がデザインした世界の、住人だったということを。

2013年1月14日月曜日

那智瀧図に描かれたもの〜新春の国宝那智瀧図展


新春を記念して、東京、表参道の根津美術館で、”新春の国宝 那智瀧図 仏教説話画の名品とともに”という展覧会が開催された。

国宝の那智瀧図は、一部屋を丸ごと使って、特別扱いで展示されていた。

13〜14世紀、鎌倉時代に描かれたといわれ、那智大社別宮のご神体、飛龍権現を表しているという。

それにしても、滝とは不思議な存在だ。山や岩をご神体とする場合は、山や岩そのものを祀れるが、滝とは、高い崖を水が流れ落ちているといういわば状態であって、その崖や水そのものは、ご神体とはならない。

絵を近くでよく見ると、今では色がくすんでしまっているが、描かれた当時は、山を覆う木々の色が、緑、黄、赤などで、鮮やかに描かれていることがわかる。

また、遠くからは、一筋に流れているように見える滝も、そのほとばしる飛沫まで、細かく描かれている。

飛龍権現は、千手観音が姿を変えたものだという。水と関連のある千手観音は、滝にふさわしい観音だ。

果たして、この絵に描かれているものは、一体、何なのだろうか?滝?飛龍権現?千手観音?あるいは、神や仏を信仰する人のこころ、ともいうべきものだろうか?

この那智瀧図の他には、同じ時代の仏教に関する説話画が展示されていた。

3幅の善光寺縁起絵。長野の善光寺は、日本に仏教が最初に伝わった時にもたらされた、といわれる阿弥陀三尊像を本尊としてる。

その阿弥陀三尊像が、どのように善光寺にもたらされたかを、3つの大きな絵で表している。色が黒ずんでしまっていて、細かい部分は、よく見えない。

高野大師行状図絵。空海の行状を絵と文章で表した絵巻物。両手、両足、口を使って書をしたため、唐の長安で”五筆”と呼ばれたり、雨が降らず、飢饉となった際に、京都の神泉苑の龍神を呼び出し、雨を降らせたことなどを、今のアニメのように描いている。

現代の視点で見れば、空海は唐にいた際に、農業用の池を作る土木技術を学んだ、ということになるが、当時の人々の視点では、空海は雨をもたらす龍神を呼び出すことが出来るた、ということになる。

3幅の聖徳大師絵伝。聖徳太子の生涯を、いくつかのエピソードで紹介している。仏教を巡る、物部氏と蘇我氏の争いを描いている場面は、まるで、源平合戦のよう。聖徳大師の時代ではあり得ない、兜や鎧を着た武士が戦っている。

どの時代も、その時代のコンテキストの中で、前の時代を見る。それは、現代においても変わらない。

仏教説話に関わる展示品は、20品ほどだったが、日本人が、どのように仏教を信仰してきたかがうかがえ、いろいろと考えさせられた展覧会であった。

2013年1月6日日曜日

人物のスケールの大きさに圧倒される〜白隠展


渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで、白隠展が開催された。

40カ所以上の所蔵元より、およそ100点に上る白隠の作品が集められ、その全貌が伺える、大規模な展覧会だった。

展示されている作品は、70代、80代の晩年のものが多い。水墨画は、描くこと自体は、それほどの時間を要しないので、多くの絵を描けたのだろうが、その旺盛な創作力には、ただただ驚かされる。

白隠にとっては、水墨画を描くことは、まさに禅の行いそのものであったのだろう。

白隠の代表作ともいえる、半身達磨。絵の中央に、大きく描かれた丸い目玉が、一度見たら、二度忘れられない、強烈な印象を残す。

これは、80代の作品で、他に展示されていた40才の頃の何枚かの作品では、もっと写実的な、達磨の絵を描いている。

同じ対象を描きながら、40年という歳月の中で、白隠の中では、達磨に対する心的なイメージが変わったのだろう。

逆に、同じ時期には、同じような達磨、観音像を多数描いている。

白隠というと、大胆なタッチで、大味な絵のイメージが強いが、地獄極楽変相図、観音十六羅漢、などの絵を見ると、細かいタッチで、多くの人物や風景を描いている。

一休も修行した京都の大徳寺の開山、大燈国師を描いた3つの作品。いずれも、ズタ袋を手に、ぼろぼろの服をまとい、托鉢する国師の姿が描かれている。

その姿は、白隠にとって、僧としての、1つの理想の姿であったのだろう。

白隠の書。太い筆で、ダイナミックに、紙一杯に書かれている。南無阿弥陀仏や権現の名など。最後の文字はスペースが足りず、小さく描かれているものが多い。白隠の自由闊達さを表している。

その一方で、知人に与えた長文の書では、はっきりした、美しい字で長々と法語を連ねている。白隠の、禅僧としての一面が垣間見える。

白隠は、その描いた絵だけでも、その名前を歴史に刻むべき人物だが、現在の臨済宗の寺のほとんどが、彼の系列に属するという、日本の禅を作った存在でもある。

その人物としてのスケールの大きさに、ただただ圧倒された、そんな展覧会であった。

2013年1月4日金曜日

江戸セレブの生活〜尾張徳川家の至宝 徳川美術館展



年が開け、間もなく、両国の江戸東京博物館を訪れた。

名古屋の徳川美術館所蔵の、国宝を始めとする徳川家の至宝の数々が展示され、正月に相応しい華やかなものだった。

江戸時代、日本を支配した徳川家は、まさに当時のセレブの頂点にいた。この展覧会では、その江戸時代のセレブの生活を、垣間見ることができた。

展示会場に入り、まず目に飛び込んできたのは、刀剣だった。

徳川家は、何よりも日本を武力で統一した武士の長であった。刀は武士の象徴。国宗、正宗、村正、といった名だたる名刀が、見るものを圧倒する。

そうした名刀は、鎌倉時代に作られたもの。一部、歯が欠けたものがあり、何度か戦場で実際に使われたようだが、キレイに磨がれたその刀は、今でも十分、現役として使えそうだ。

しかし、その後の展示からは、そうした血なまぐささは一層され、一気に豪華なセレブ生活に突入していく。その展示内容のギャップが、興味深かった。


まずは茶の湯。室町時代に成立し、秀吉によって権力誇示の方法として確立された茶の湯は、江戸時代においても、支配階層である武士のたしなみとして、大きな発展を遂げた。

藤原定家、藤原行成、一休宗純らの書。南宋時代の油滴天目、黄天目茶碗。信長や秀吉も使っていた茶器。古田織部の茶杓、などなど。

それらの茶道具の所持は、徳川家の権威の象徴だった。一休宗純は、自らの死後、よもや自分の書が、そうした目的で飾られるとは、思いもよらなかったに違いない。

続いては、能に関する展示。世阿弥の書物にも登場する、越智吉舟による翁、痩女の能面や色鮮やかな能装束の数々が並んでいた。

能は、室町時代に普及したが、江戸時代には、公式行事で必ず演じられる演劇となった。

この展覧会の目玉は、源氏物語絵巻と初音の調度、という2つの国宝。

源氏物語絵巻は、柏木の帖。光源氏が、正妻の女三宮と柏木の不義の子、薫を、その秘密を知りながら、自分の子として抱いている場面。

初音の調度は、3代将軍家光の娘、千代姫が尾張徳川家に嫁いだ時の。細かい彫刻、金箔をまき散らしたその品々は、まさに徳川家の至宝。

将軍自身も、書や水墨画を習っていた。徳川家康が描いたといわれる、小さな恵比寿様の絵。まるで、子供の描いた絵のように、微笑ましい。

鎌倉時代に始まった武士の時代は、この江戸時代の徳川家の支配によって、その頂点に達し、やがて訪れた近代化の流れの中で、終わりをつげた。

徳川美術館に伝わる、その豪華な名品、工芸品の数々は、その栄光を今日に伝えている。

2013年1月3日木曜日

能楽堂に行ってみたくなった〜観世宗家展


銀座の松屋で、観世宗家展が開催された。2013年は、観阿弥の生誕680年、その子、世阿弥の生誕650年にあたり、それを記念したもの。

また、正月に相応しい展覧会でもあった。

日本で最初の、本格的な演劇といわれるのが、今でも演じられている能。これを実質的に作り上げたのが、観阿弥、世阿弥の親子だといわれている。

特に、世阿弥は『風姿花伝』という、能を演じるにあたっての手引書を記した。その中の”秘すれば花”という言葉は、能という分野を越えて、日本人の思想を表現する言葉として定着している。

展示品は、主に、能面、能装束、そして古文書などで構成されていた。それらの品々は、観世宗家に代々伝わる、貴重な歴史の遺産でもあり、現在でも実際に使われている、現役の道具でもある。

能は、仮面劇である。演者は、表情が変わらない仮面を被り、その演技で、その変わらない表情を使い、様々な感情を表現しなければならない。

平安時代の翁の能面。文字通りの満面の笑みの表情。作者の弥勒は、10世紀末に活躍した伝説の能面作者だったという。

その時代は、まだ能という芸能は確立されていなかった。民間芸能として、仮面劇が演じされていた。笑いは、人々の心を明るくする。今も、新年は”初笑い”という言葉をよく目にする。翁は長寿の象徴。翁の笑顔の能面は、それだけで、おめでたさを感じる。

他にも、若い女性の”小面”、若女、霊女、姥、山姥、般若、敦盛、痩男など。室町時代、江戸時代を代表する能面作家による、いろいろな種類の能面が、並んで展示されてた。

会場を華やかに彩っていたのは、能装束。しかし、そのパターンは、およそ20種類ほどしかない。

中には、室町時代の足利義政から与えられたもの、徳川家康、徳川秀忠から与えられた装束も展示されていた。それらは、今も特別な講演で実際に使われている。

能が成立した南北朝時代以降、能は常に時の権力者の庇護を受けてきた。歌舞伎が民衆に支えられた芸能だったのとは、対照的な歴史を経てきた。

観世宗家には、世阿弥の直筆による『風姿花伝』が伝えられ、会場にも展示されていた。

父の観阿弥が50代という若さで急死し、20代で家を継ぐことになった世阿弥は、その父の教えと、自分の経験を、ちいさな書物にまとめた。それが、今日では、万人に共有される日本の古典になっている。

観世宗家は、世阿弥の甥にあたる、音阿弥から続いている。世阿弥と音阿弥は、当時はライバル関係にあった。

世阿弥が、もしこの展覧会を見たとしたら、自分の作り上げた芸術が、およそ700年も続いていることに満足するだろうが、その反面で、それが音阿弥の子孫の家名で展示されていることに、複雑な思いが湧くかもしれない。

能はテレビでは見たことがあったが、能楽堂では見たことはない。この展覧会を見て、今年は、能楽堂に足を運んでみようかな、と思った。

2013年1月1日火曜日

作品だけで評価されるべき画家〜山下清展


日本橋三越で開催された、山下清の生誕90周年を記念する展覧会を見た。

山下清というと、その作品よりも、ドラマによって作られたキャラクターがまず思い浮かんでしまう。

幼き頃に描かれた昆虫の絵。決して上手とはいえないが、物事をみつめ、それを絵にするという画家としての本能が、そこには表れている。

山下の大きな特徴は、その作品の多くが、貼絵という形式で作られている点だ。

しかも、文字通り線のように細かく切られた紙片を、丹念に貼付けている作品を目にすると、山下清という作家の、尋常ではない、その迫力に圧倒される。

あまりにも細かいので、作品を見ただけでは、それが貼り絵と気づくのに、相当の時間を要する。場合によっては、貼り絵とは気がつかないかもしれない。

その代表作といえる、長岡の花火、は、一度見たら、二度と忘れられないほどの印象を残す作品だ。

花火の火の粉は勿論、無数いる群衆の表情までも、その細かい紙片で表現されている。これはまさに、神業だ。

筆先の太い、フェルトペンで描かれた、東海道五十三次。

太い線と点だけで、街道筋にある町、神社、寺、山や田などの風景が、忠実に描かれている。山下清の、画家としての、純粋に物を描くということの本性が、そこには表れている。

会場には、全国を放浪する山下清の様子、それを伝える海外を含めた雑誌なども合わせて展示されていた。

これからも、しばらくは、そうした作品以外の側面も、彼の周囲には付いて回るだろう。

山下清が、その作品だけで評価される時代が訪れることを、切に願いながら、会場を後にした。