2012年9月28日金曜日

徳川家の栄光と終焉を見つめた城の物語〜二条城展から


京都の二条城。この城は、徳川家の栄光と終焉を見つめた。

江戸東京博物館で開催された、二条城展では、その記憶を、様々な展示品から、辿ることができた。

関ヶ原の戦いの勝利の後、徳川家康は、1602年からこの城を着工した。当時、秀吉の聚楽第の跡地の南に広がる荒れ地に、この城は建てられた。

しかし、そこは京都の中心であり、神泉苑という京都のへそを取り込んで作られた。家康は、まさに、京都のど真ん中に、徳川家の支配の象徴を建てたのだ。

会場に展示された、二条城の天守が火事で失われる以前の、江戸時代の初期に描かれた洛中洛外図には、その中央に、京都の町を見下ろすように、二条城の天守と城郭が描かれている。

そして、後水尾天皇に、2代将軍、徳川秀忠の娘、和子が嫁ぎ、その後水尾天皇が、二条城を訪れた寛永の行幸は、まさに、徳川家の権力の頂点だった。

現役の天皇が、徳川家の城を訪れるということは、まさに、徳川家が天皇家の上に立ったという象徴的な出来事だった。

その寛永の行幸を描いた、屏風画。御所から二条城まで、延々と続く行列が、屏風に描かれている。一人一人の、衣装や表情が、実に細かく描かれ、主要な人物には、名前も記入されている。

これは、徳川家が、日本の支配者になったことを記録する、当時の記録ビデオといえる。

その寛永の行幸に合わせて行われた大改修。当時の画壇のトップだった狩野派による、1万枚にものぼる絵画。それを、狩野派の絵師達は、わずか3年間で描ききった。

その代表的な虎や、その他の動物、植物の屏風絵が、会場に並べられていた。正直、二条城に置かれていた方が、明らかに迫力がある。展覧会の会場では、ややくすんで見えた。

二条城といえば、徳川慶喜による大政奉還の表明がされた場所としても名高い。それは、徳川家による日本の支配の終焉を意味した。

幼い頃、教科書でみた、その有名な絵の原画が、眼の前に展示されていることに、不思議な感覚に捉われる。

二条城という城は、徳川家による日本の支配、あるいは京都の支配の象徴的な存在だが、それが現在の京都観光の目玉になっているのは、何とも皮肉だ。

そんな複雑な気持ちを持ちながら、会場を後にした。

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