2012年9月16日日曜日

草原に消えた契丹王朝の記憶


中国の歴史は、漢民族と北方遊牧民族の興亡の歴史、とも言える。契丹もしくは遼といわれる民族も、そうした北方遊牧民族の1つだ。

契丹は、唐の滅亡により、混乱する中国北部の地に、916年に自らの国家を建国した。1004年には、宋と条約を結び、毎年莫大な富を宋から得るようになった。

しかし、やがて現れた新勢力の女真族が現れ、宋と女真族の挟み撃ちに合い、女真族の手によって、1125年に滅ぼされた。

建国者の、耶律阿呆機、という名前は、学校の世界史の授業で、試験用に暗記した記憶が、微かながら、私の頭の片隅に残っている。

東京芸術大学大学美術館で開催された『草原の王朝 契丹 3人のプリンス』では、文字通り、契丹の3人の王女の墓からの出土品や、ゆかりの品が展示されていた。

そのうちのいくつかは、歴史の本でその写真が紹介されているものもあり、中国の国宝にあたる、一級分物が50点近く展示されるなど、実に豪華な展覧会であった。

契丹の第5代皇帝の孫、陳国公主の墓から出土した黄金のマスク。遺体の顔の上に被されていたマスクで、表情は、鼻が低く、私たちにもなじみのある顔で、親近感がわく。

会場の一番奥の部屋には、大きな彩色された木簡が展示されていた。被葬者は特定されていないが、明らかに女性の黒い髪が埋葬されており、地位の高い女性だったと考えられている。

金の器や、陶磁器などの文様は、中国からの影響が強く感じられた。インドの神話や、大乗仏教の説話に登場する、マカラという、翼を持つ魚の文様が印象的だった。

契丹の宗教は、もともとは、遊牧民族の共通するシャーマニズムだったようだが、国の成立後は、仏教を受け入れた。会場には、釈迦像や舎利塔、仏塔などが展示されていた。

また、第6代皇帝の后が、夫の弔いのために建てたという、慶州白塔の写真が展示されていた。8段もあり、何もない草原に、文字通りの白い塔がそびえる姿は、心に強く残った。

契丹には、日本からも使節が派遣され、わずかながら、交易も行われていたという。

契丹の人々は、国家の滅亡後、漢民族やモンゴル民族の支配下で暮らし、その後、二度と国家を持つことはなかった。

この展覧会では、偉大なる民族、契丹族の栄光の一端を、かいま見ることができた。

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