2012年9月29日土曜日

ドビュッシーもしくは芸術の響宴

ブリヂストン美術館で、「ドビュッシー 音楽と美術」展が開催された。この春に、パリのオランジュリー美術館で開催された展覧会の、日本での巡回展。

展示品は、大きく3つに分けられる。ドビュッシーの直筆の楽譜など、直接ドビュッシーに関係するもの。次に、ドビュッシーと縁のある芸術家の作品。そして、直接ドビュッシーとは関係はないが、同じ時代の作品。

ドビュッシーの直筆の楽譜や手紙。小さく、しかも細い線で書かれたその楽譜を見て、ドビュッシーという人物像が、一瞬で理解できたような気がした。

裕福な家庭に生まれ、何不自由なく暮らしてきたドビュッシーは、晩年の髭面の趣とは異なり、実は繊細な感覚を持った人物だったのだろう。

ドビュッシーが所蔵していた、日本の鍋島焼きのインク壷、鯉の蒔絵の工芸品などが展示されていた。ドビュッシーは、当時、パリでジャポニズムとして紹介されていた日本の工芸品に興味があった。有名な、交響詩『海』にちなんで、北斎の「神奈川沖浪裏」の浮世絵が飾られていた。

鯉の蒔絵の工芸品からは、『金色の魚』を作曲した時に、インスピレーションを受けており、ドビュッシーにとっては、当時の自分の身の回りの芸術作品から、多くの曲のイメージを得ていた。

ドビュッシーは、音楽と同じくらい絵画が好き、と語っていたという。多くの画家とも交流していた。

そのうちの一人、モーリス・ドニの『イヴォンヌ・ルロールの3つの肖像』。この女性には、ドビュッシーもドニも、同様に恋心をいだいていた。一人の女性の3つの肖像が、一つの絵の中に描かれている。くすんだ青と緑を基調に描かれた、ドニらしい、そして美しい作品。ドビュッシーも、この女性に曲を捧げている。

ドビュッシーの代表曲、『牧神の午後への前奏曲』。この曲は、詩人のマラルメの依頼で作られ、これを気に入ったダンサーのニジンスキーが、ルーブル美術館の古代ギリシャの壷の絵をイメージして、ダンスを振り付けた。

まさに、芸術ジャンルの枠を超えた響宴だが、会場には、マネによるマラルメの肖像、ニジンスキーの『牧神の午後への前奏曲』を踊る写真、そしてルーブル美術館の古代ギリシャの壷が展示され、そうした奇跡のコラボレーションの雰囲気を味わえる、憎い演出がされていた。

また、直接ドビュッシーとの結びつきはないが、同時代の多くの絵画が、オルセー美術館やブリヂストン美術館から展示されており、当時の時代の雰囲気を感じることができた。

この展覧会を見て、ドビュッシーの音楽は、19世紀末から20世紀初頭にかけての、パリの新しい芸術環境が、一人の天才的な個性を通して、生み出されたものだということが、よくわかって、興味深い内容だった。

2012年9月28日金曜日

徳川家の栄光と終焉を見つめた城の物語〜二条城展から


京都の二条城。この城は、徳川家の栄光と終焉を見つめた。

江戸東京博物館で開催された、二条城展では、その記憶を、様々な展示品から、辿ることができた。

関ヶ原の戦いの勝利の後、徳川家康は、1602年からこの城を着工した。当時、秀吉の聚楽第の跡地の南に広がる荒れ地に、この城は建てられた。

しかし、そこは京都の中心であり、神泉苑という京都のへそを取り込んで作られた。家康は、まさに、京都のど真ん中に、徳川家の支配の象徴を建てたのだ。

会場に展示された、二条城の天守が火事で失われる以前の、江戸時代の初期に描かれた洛中洛外図には、その中央に、京都の町を見下ろすように、二条城の天守と城郭が描かれている。

そして、後水尾天皇に、2代将軍、徳川秀忠の娘、和子が嫁ぎ、その後水尾天皇が、二条城を訪れた寛永の行幸は、まさに、徳川家の権力の頂点だった。

現役の天皇が、徳川家の城を訪れるということは、まさに、徳川家が天皇家の上に立ったという象徴的な出来事だった。

その寛永の行幸を描いた、屏風画。御所から二条城まで、延々と続く行列が、屏風に描かれている。一人一人の、衣装や表情が、実に細かく描かれ、主要な人物には、名前も記入されている。

これは、徳川家が、日本の支配者になったことを記録する、当時の記録ビデオといえる。

その寛永の行幸に合わせて行われた大改修。当時の画壇のトップだった狩野派による、1万枚にものぼる絵画。それを、狩野派の絵師達は、わずか3年間で描ききった。

その代表的な虎や、その他の動物、植物の屏風絵が、会場に並べられていた。正直、二条城に置かれていた方が、明らかに迫力がある。展覧会の会場では、ややくすんで見えた。

二条城といえば、徳川慶喜による大政奉還の表明がされた場所としても名高い。それは、徳川家による日本の支配の終焉を意味した。

幼い頃、教科書でみた、その有名な絵の原画が、眼の前に展示されていることに、不思議な感覚に捉われる。

二条城という城は、徳川家による日本の支配、あるいは京都の支配の象徴的な存在だが、それが現在の京都観光の目玉になっているのは、何とも皮肉だ。

そんな複雑な気持ちを持ちながら、会場を後にした。

2012年9月27日木曜日

日本人が書に込めた思いとは何か


大蔵集古館で開催された「国宝 古今和歌集序と日本の書」を見学した。

この展覧会の目玉は、最近修理が終わった、藤原定実の手による古今和歌集序、の展示。

13世紀、鳥羽天皇、白河天皇、という王朝文化の最後の輝きがあった時代の作品。すぐ後には、源平の血みどろの戦いが待っている。

やがて、藤原俊成、定家の手によって、日本の書が大きく変わってしまう時代がやってくる。そんな時代の作品。

日本のいわゆる仮名文字は、中国から伝わった漢字をもとに、もともと、この国にあった言葉の音をあてはめて、作られたものだった。

今でも、漢字で書くと、肩肘の張った、堅苦しい文章、に見える。ひらがなで書けば、やわらかい、やさしい文章、に見える。

日本人にとって、漢字は外国の言葉で、そこに表される世界は、どこかよそ行きのものだったのだろう。ひらがなで、本当の思いを伝えることができた。

およそ、千年前に書かれた、文字通り、まるでミミズのはった後のような、現代人にはとても読めない、古今和歌集の仮名序をみながら、そんなことを考えてしまった。

奈良時代の印刷された陀羅尼経。芋版のようで、版に彫られた字が、たどたどしい。

聖武天皇の手になると伝わる、まるで習字のお手本のように整った漢字の書。

書というより、背景の色紙といったいとなったアート作品となっている、江戸時代の本阿弥光悦の作品。

幕末の西郷隆盛の七言二句の書。墨のハネがダイナミックで、まさに西郷の人柄がよく現れている。

日本人が、書に込めてきた思いとは何か、あらためて、考えさせられた展覧会だった。

2012年9月23日日曜日

平家物語の世界を扇絵で楽しむ

ちょうど、平家物語を読んでいる時に、タイムリーなことに、根津美術館で、平家物語画帖展、が開催された。


この画帖は、江戸時代に作成された物で、作者や作成した工房は特定されていない。根津美術館以外にも、同様の画帖を保管している美術館もあることから、ある時期に集中して作成されたのかもしれない。

平家物語の主要な120の場面について、右側に文章を、左側に扇の形の中に、その場面を描くという構成。

一度では、120すべての内容を展示することが難しいため、前期・後期の2回に分けて、展示されていた。

この画帖以外にも、鎌倉時代の源平盛衰記の断片や、江戸時代の平家琵琶など、関連する品々も、展示されていた。

さて、平家物語画帖だが、120場面というと、この物語のほとんど主要な部分がカバーされている。

平家の祖父の平忠盛が、殿上を許された時に、闇討ちにあったエピソードや、鳥羽上皇の愛人だった父の忠度の妻の話にはじまり、鹿ケ谷の陰謀のシーン、そして、木曾義仲の最後、壇ノ浦の戦いなど、この物語を読んだことがない人間でも、よく知るようなエピソードが、小さな扇絵の世界の中で展開されている。

扇の大きさは、縦10センチ、横は25センチくらいだろうか。その小さな空間の中に、1つのエピソードが、細い筆を使って、色鮮やかに、描かれている。

扇の形は、湾曲しているが、その湾曲を上手に使い、小さい得ながら、左右の空間的な広がりを表現する技術は見事。

普通の左右の伸びているだけの空間では表現できない部分が描かれているので、それが、扇絵独特の絵画世界を可能にしている。

平家と源氏の戦いの中で展開される、様々な人間模様を、この国の人々は、文章と絵画を使い、時代ごとの特徴を付け加えながら、1000年近くにわたり、味わってきたのだなあ、という思いを強くした。

マリー・アントワネットという物語を読む

横浜のそごう美術館で開催された、マリー・アントワネット物語展を見た。


この展覧会の名前、特に”物語”という部分は、多いに示唆的だ。おそらくは、この展覧会にも関係している、池田理代子の『ベルサイユのばら』を意識しての命名だろう。

しかし、このマリー・アントワネットという一人の女性の生涯は、”物語”という言葉に相応しい。

ハプスブルグ帝国の末娘として生まれ、わずか14才で、当時敵国とされていたフランスのブルボン王朝に嫁ぎ、その一挙手一投足が、政治的な事件となる環境で、青春時代を送った。

フランス革命後は、優雅な王族の暮らしから一転して、牢獄での生活となり、わずか37才で、断頭台で首を切り落とされて命を落とす。

その一生は、まさに、物語。彼女は、あくまでも、物語の主人公にすぎない。


この一人の女性の周りには、あまりにも、いわゆる制度、とでもいうべきものがまとわりついており、なかなか、その人間としての側面にたどり着ことはむずかしい。

会場には、復元された美しい衣装、実際に使われた、小物入れ、時計、ボタンなどが展示されていた。

しかし、それらは、人間が実際に使っていたもの、というよりは、はじめから、博物館に展示されるために作られたような、人間くささが感じられない代物ばかりだった。


ヴィジェ・ルブランによる、マリー・アントワネットの顔のアップと、子供達との肖像画の2つの作品があった。ヴィジェ・ルブランも、時代の流れに翻弄された女性だった。

当時では珍しく、女性の画家として、フランス革命直前のフランスで、王族や貴族の肖像画かとして活躍し、フランス革命後は、ロシアに逃れ、そこで画家としての活動を続けた。

また、当時のブルボン王朝による、華麗な晩餐会や、花火を打ち上げる催し物の様子などを描いた、版画や絵画が展示されていた。

それらを見ると、革命の足跡が近づいているにもかかわらず、王族や貴族達が、いかにばか騒ぎを行っていたかがわかる。

ひとつの時代が変わる瀬戸際は、いずれの時代も、同じような光景が展開されるのかもしれない。


断頭台に向かうマリー・アントワネットの、大きな絵画が会場の最後の方に展示されていた。その絵画の中での彼女は、顔を上げて毅然と正面を向き、あくまでもフランスの女王として、最後までその高貴な精神を貫いた、という風に描かれている。

果たして、人生の最後に当たり、この女性の心の中には、どんな思いがよぎったのだろうか?

その応えは、誰にもわからない。すべての答えは、彼女の物語の中にある。

2012年9月22日土曜日

夢窓疎石というスーパースター

明治時代に建てられた、旧横浜正金銀行本店の味のある建物の中に、神奈川県立歴史博物館がある。


ここで、鎌倉時代から室町時代にかけて活躍し、神奈川県にも縁のある、夢窓疎石に関する。特別陳列が行われていた。


夢窓疎石は、1275年に伊勢の地で生まれ、その後、甲斐の国で、蘭渓道隆派の元で禅の修行を行った。

その後、鎌倉の建長寺、円覚寺などで僧として修行に励んでいたが、その得意な才能が時の権力者の眼に留まり、彼は歴史の表舞台に狩り出されることになった。

後醍醐天皇、足利尊氏、足利直義などの、いわば精神的な師となり、京都の天竜寺の造営や、多くの庭園を設計を行った。

会場には、夢窓疎石の銅像、肖像画、書など、あるいは、後醍醐天皇などの、関連する人々の書などの作品が展示されていた。

禅僧という枠でいえば、日本の歴史の中で、最も影響力のあった存在が、夢窓疎石と言えるだろう。室町時代は、まさに、禅の時代だった。

現代も、岩波文庫などで安価に手に入れることのできる『夢中問答』。夢窓国師が、足利尊氏の弟、足利直義からの様々な質問に答える形式の、禅の思想書。

南北朝時代の金沢本が展示されていた。奇しくも、現代の文庫本のようにサイズが小さい。この本は、室町時代は勿論、江戸時代、そして明治以降も、出版元は変われど、常に、出版され続けてきた。

原文で読んでも、その大意は現代人でも理解できる。”お金や物に捉われていては、幸せは決して訪れない。”と語るその内容は、現代人の心にも強く響く。

その一方で、展示品の中には、自らの宗派、疎石派の寺の経営のために、権力者に出した書簡などもあり、夢窓疎石の世俗的な側面も垣間見えた。

時代の大きな流れが、一人の禅僧を、時代の頂点に押し上げて行った。その時代の残り香を、ほのかに嗅いだような気がした。

スタジオ・ムンバイの挑戦

かねてから注目していた、スタジオ・ムンバイの日本での初めての展覧会が開かれるということで、六本木のギャラリー間に足を運んだ。


会場に足を踏み入れたとたん、スタジオ・ムンバイの設計事務所そのものを訪れたのでは?という錯覚に捉われる。上手な演出だ。

壁の周りには、これまでの作品や、その建築風景の写真が飾られいる。その前には、作品の模型と、実際に使われたデザインノートや建築機材なども、整然と置かれている。


3階のテラスにも、建築資材や、作品の一部が展示されている。

スタジオ・ムンバイは、アメリカで建築を学んだビジョイ・ジェインが、1995年、30才の時にインドに帰国してスタートした建築集団で、地元の建築職人たちとのネットワークを通じて、設計から施行まで一貫して行っている。

建物が建てられる場所の自然的なあるいは人間的な側面を受け入れ、地元の素材を活用したり、石工などの職人も、設計の段階から意見を出し合うという、そのユニークな方法で、最近、世界中から注目されている。


4階に上がると、よりスタジオらしい雰囲気が再現されている。ビジョイ・ジェインのデスクが再現されている。


インドのヒマラヤも麓、2300メートルの高原に建てられた、レティ360リゾート。地元の石材を使い、その建物は、完全に自然に溶け込んでいる。


4階の会場の真ん中に、塗料や木材などが、建築現場さながらに置かれている。スタジオ・ムンバイは、ビジェイはアメリカで学んだこともあって、こうしたプレゼンテーションが実に巧みだ。

現在、進行中のプロジェクト。ムンバイに建設中の、サート・ラスタ 561/63の初期模型。


インド、マハラシュートラ州、チョンディのコッパー・ハウスII。モンスーンで床下浸水を意識して、高床式になっている。

普通、有名な建築家の作品は、どこに建てられていようとも、一目で誰の作品かわかることが多い。自分のスタイルを持って、それをどの場所にも当てはめようとするからだ。

しかし、スタジオ・ムンバイの作品を見ていると、そうしたパターンを見つけることが難しい。それは、その建築が、完全にそれが建つ土地や風土に合わせて、作られているからだ。

どうして、今世界中が、スタジオ・ムンバイに注目しているのか、その理由が、よくわかった気がした。

生きるための家とはどんなものだろうか?

東京都美術館のリニューアルを記念して、「Art&Life: 生きるための家」展が開催された。

同じくリニューアル記念として、マウリッツハイス美術館が開催されていた。こちらは、フェルメールの真珠の首飾りの少女が展示されているとあって、1時間待ちほどの行列ができていた。

対する「Art&Life: 生きるための家」展は、それなりに来場者はいたが、全体的にまばら。

若き建築家の159点の応募作の中から、39点の作品が、審査を受けて、模型として展示されていた。最優秀賞の作品は、会場の入り口に、実物大の模型で展示された。

この展覧会の企画中に、東日本大震災が発生した。応募者も、それを審査する側も、当然のことながら、それを大きく意識したことだろう。


最優秀賞の作品、山田妙子の家族の生きるための家。


sky | studio の階段でつくる家。


marikoabe Unfolded Houses-for architectural space


山田健太郎のloop。


竹田和行の吹き抜けのある共同生活。


中園昌志の十字柱の家。


加藤祐樹のShell Shelter。


大橋彰太の暮らし続けられる家。


山本悠介の Forest × House。


坂本尚朗、村上勇太、辺見英俊の一本の大きな木の中に彫りながら棲む。


秦彩菜の集合しようとする住宅。


宍戸香織の生きているちから。


太田絢子のつみきの家。


斧田裕太の遺る家。

若き建築家の作品ということもあり、コンセプト優先のもの、実用的な物など、様々な建築の模型が会場に溢れていて、学園祭のような、わくわくする気持ちになった。

はっきりいって、これらの作品の多くは、仮に実際つくられたとしても、人が長く住む家にはならないだろう。

しかし、1つ1つの作品は、それを目にする人に対して、”あなたにとって家とは何ですか?”という質問を、静かに問い続けていた。

2012年9月17日月曜日

19世紀のロシアの人間を描いたレーピン

イリヤ・レーピンという画家について、これまでは、『イワン雷帝と皇子イワン』という絵画の作家、ということしか知らなかった。

渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで行われた、日本で初めてとなる、本格的な回顧展を見て、その存在の大きさを実感することができた。

残念ながら、その『イワン雷帝と皇子イワン』は、本編ではなく、小さな習作しか出展していなかった。

『イワン雷帝と皇子イワン』では、期せずして、皇子イワンを殺してしまったイワン雷帝が、自分のしたことに戦慄して、血だらけの皇子イワンを抱きしめている、というグロテスクな絵だが、何よりも、イワン雷帝の白目になった目の描き方が素晴らしい。

この白目を使った技法は、レーピン独特の技法で、展覧会においても、『皇女ソフィア』や『思いがけなく』という作品でも、効果的に使われていた。

『皇女ソフィア』では、ソフィアが、異母弟のピョートル大帝に幽閉され、彼女の使用人が拷問を受けているのを、腕を組んで異母弟への怒りに震えている。その目が、まさに白目を剥いている。

また、『思いがけなく』では、革命に身を投じていた息子が、思いがけなく実家に戻っている。その招かざる客の突然の訪問に、幼い兄弟達が、まさに白目を剥いて驚いている、といった情景を描いている。

展覧会では、数多くの肖像画も紹介されていた。自分の妻や子供を描いたものもあれば、ムソルグスキー、トルストイなどの歴史上の人物を描いたものもある。誰を描いても、その念密に描かれた表情から、その人物の性格まで描ききってしまう、レーピンの技術の高さに感銘を受けた。

レーピンは、今のウクライナの地で生まれたが、ウクライナ人ではなく、両親はロシアからの入植者だった。しかし、コサックを生んだウクライナの大地の記憶は、いつもレーピンの心の中にあったのだろう。

『トルコのスルタンに手紙を書くザポロージャのコサック(習作)』では、スルタンからの脅迫めいた手紙に対して、それを笑い飛ばしながら返事を書いている、自由なコサックの人々の姿が、見事に生き生きとして表情で描かれている。

レーピンの絵画を見ていると、”ロシア的なものとは何か”について、思わず考えてしまう。”ロシア”といっても、様々な民族があり、一言で表現することはできないが、そこには、明らかに、他の地域とは違った”何か”があり、音楽、文学、絵画について、他の地域とは明らかに異なった作品を生み出している。

これから、ロシアという言葉に出会う度に、私は、チャイコフスキーやトルストイ、ドストエフスキーらとともに、レーピンの絵画を頭に浮かべることになるだろう。

2012年9月16日日曜日

元素のふしぎ もしくは人類の収奪のふしぎ


ここ最近、国立科学博物館が元気だ。

1年のうちに、国立科学博物館を2回以上訪れる、などということは、これまで一度もなかった。今年は、春のインカ展に行き、もうこれ以上来ることはあるまい、と思っていたが、この『元素のふしぎ』を見て、さらに、次の『チョコレート展』にも行ってしまいそうだ。


会場には、118個ある元素について、上部に説明と、それが実際にどのように使われているか、具体的な製品や材料が、下部に展示されていた。


この全てを1つ1つ丹念に見学し、記憶して行ったら、立派な科学者になれそうだ。勿論、多くの人は、ブラブラ歩きながら、時折、興味のある所で立ち止まっていた。

しかし、中には、1つ1つ熱心にメモを取っている子供の姿もあった。


最初のコーナーには、小惑星イトカワの模型と、その小惑星と同じ組成の隕石が展示されていた。最近話題になった科学のトピックを上手に使い、見学者に展覧会への興味をより引き立てるような、上手な演出がされていた。


こちらは、月に大きな隕石が衝突し、その結果はじき出された岩石が、地球に落ちてきたもの。


 こちらは、火星からの隕石。地球には、結構、宇宙からの物質が降り注いでいるのだ。

それにしても、ほとんどの元素について、人間は、何らかの形で利用しているのがよくわかった。

鉄(原子番号26)、ナトリウム(11)、マグネシウム(12)、などのお馴染みの元素については、よくわかるが、ジルコニウム(40)、ハフニウム(72)、テルル(52)など、これまで聞いたこともないような元素まで、人類は様々な用途に活用している。

人類は、その歴史の中で、自らの生活を便利に、豊かにするためには、この世のあらゆる物質を、使いまくろうとしている。

その意味では、この展覧会は、輝かしい人類の知恵や技術の証明でもあり、自分たちのためなら、宇宙にある元素をフルに使おうという、人類の収奪の証でもある。

どうして、人類という存在は、そこまでするのか?

この展覧会では、元素の不思議とともに、人類のそうした不思議についても、いろいろと、考えさせられることが多かった。

草原に消えた契丹王朝の記憶


中国の歴史は、漢民族と北方遊牧民族の興亡の歴史、とも言える。契丹もしくは遼といわれる民族も、そうした北方遊牧民族の1つだ。

契丹は、唐の滅亡により、混乱する中国北部の地に、916年に自らの国家を建国した。1004年には、宋と条約を結び、毎年莫大な富を宋から得るようになった。

しかし、やがて現れた新勢力の女真族が現れ、宋と女真族の挟み撃ちに合い、女真族の手によって、1125年に滅ぼされた。

建国者の、耶律阿呆機、という名前は、学校の世界史の授業で、試験用に暗記した記憶が、微かながら、私の頭の片隅に残っている。

東京芸術大学大学美術館で開催された『草原の王朝 契丹 3人のプリンス』では、文字通り、契丹の3人の王女の墓からの出土品や、ゆかりの品が展示されていた。

そのうちのいくつかは、歴史の本でその写真が紹介されているものもあり、中国の国宝にあたる、一級分物が50点近く展示されるなど、実に豪華な展覧会であった。

契丹の第5代皇帝の孫、陳国公主の墓から出土した黄金のマスク。遺体の顔の上に被されていたマスクで、表情は、鼻が低く、私たちにもなじみのある顔で、親近感がわく。

会場の一番奥の部屋には、大きな彩色された木簡が展示されていた。被葬者は特定されていないが、明らかに女性の黒い髪が埋葬されており、地位の高い女性だったと考えられている。

金の器や、陶磁器などの文様は、中国からの影響が強く感じられた。インドの神話や、大乗仏教の説話に登場する、マカラという、翼を持つ魚の文様が印象的だった。

契丹の宗教は、もともとは、遊牧民族の共通するシャーマニズムだったようだが、国の成立後は、仏教を受け入れた。会場には、釈迦像や舎利塔、仏塔などが展示されていた。

また、第6代皇帝の后が、夫の弔いのために建てたという、慶州白塔の写真が展示されていた。8段もあり、何もない草原に、文字通りの白い塔がそびえる姿は、心に強く残った。

契丹には、日本からも使節が派遣され、わずかながら、交易も行われていたという。

契丹の人々は、国家の滅亡後、漢民族やモンゴル民族の支配下で暮らし、その後、二度と国家を持つことはなかった。

この展覧会では、偉大なる民族、契丹族の栄光の一端を、かいま見ることができた。

2012年9月9日日曜日

”具体”という名の抽象芸術集団

”具体”という芸術集団の名を知ったのは、東京現代美術館で行われた、そのメンバーの一人だった田中敦子の展覧会においてであった。

その”具体”をテーマにして、大規模な回顧展が開かれていると聞いて、会場の新国立美術館に足を運んだ。

”具体”は、裕福な家庭に生まれ、戦前から前衛芸術家として活動いていた吉原治良が、周囲にいたアーティスト達と1974年に結成した芸術家集団だ。

抽象芸術だけを表現する、というのがその”掟”だったが、”具体”というのは、それにそぐわない気もする。”われわれの精神は自由であるという証を、具体的に提示したい”ということから、”具体”と名付けられたという。

会場には、このグループの初期の作品から、1972年に吉原の死によって解散を迎えるまでの、全期間を通じての作品が展示されていた。

活動初期は、絵画あり、オブジェあり、パフォーマンスあり、といった何でもありの状態だった。高校時代に、文化祭のために、夜遅くまで迷路を作っていたことを思い出した。

彼らの活動は、フランスで”アンフォルメル”芸術を標榜していたミヒャエル・タピエの目に止まり、彼を通じて、西洋社会に広く紹介されることになった。

タピエは、彼らの作品を西洋の美術マーケットで流通させるために、吉原に、キャンバス作品に集中するように要請し、”具体”の作品には、それまでのオブジェやパフォーマンスは姿を消した。

時代から自由だと思われがちな抽象芸術も、美術マーケットを無視しては存在できない。この”具体”の変身には、現代社会における芸術のありようを、考えさせられる。

後期には、その活動がマンネリ化したことを受けて、吉原が新しいメンバーを入れるなどして活性化を図り、オブジェやパフォーマンスも復活することになった。

1970年に大阪で開催された万国博覧会では、主催者側からの要請もあり、”具体”による大規模なパフォーマンスが開催された。

その時のパフォーマンスが、映像で紹介されていた。そのパフォーマンスの見ていると、何となく、当時の時代の雰囲気に、むしろ”具体”が、踊らされているようにも見えた。

1974年に、吉原の突然の死を持って、”具体”は解散を宣言する。”具体”とは、紛れもなく、吉原というアイーティストの存在そのものだった、と言っていいのだろう。

率直に言って、会場に展示されていた、作品の1つ1つには、それほど大きな驚きは感じられなかった。今日、普通に目にする抽象芸術と、大きく異なった点はなかったからだ。

しかし、そのことは、ある意味では、当時の前衛的な抽象芸術であった”具体”が、今日では、すでに古典になっていることを意味している。