今回で5回目を数える恵比寿映像祭。今回のテーマは、public ⇄ diary。映像は、社会的な記録手段としても使われるし、個人にとっては、日記のようにも使える。その両面の性格に焦点を当てた。
会場の東京都写真美術館のある、恵比寿ガーデンプレイスのオープンスペースに、そのテーマを象徴するような作品が作られていた。
鈴木康広による、記憶をめくる人。上部には、巨大な本のオブジェがあり、その下には、机とその上で、日記のようなメモを書くようなセットが置いてある。
時間が遅くなると、様子が変わるようだが、私が訪れた時は、このままの状態で、その威容を誇っていた。
映像祭は、有料の映画やシンポジウムと、無料の展示会で構成されていた。美術館全体を使っての展示会から、記憶に残ったいくつかの展示を記す。
昭和13年から20年まで、国民の戦意高揚のために発行された写真雑誌、国民週報。生活は大変だけど皆で乗りきろう、という呼びかけや、空襲の時の、避難の仕方、身の守り方などの実用的な情報などが掲載されている。
同じ写真が、時代の変化によって、まったく違う取り扱いを受けている。そのことを、これほどよく表す資材は、他にないだろう。
ヒト・スタヤルのキス。ボスニア紛争で行方不明になった人々を、遺された痕跡から、3D画像で現代に蘇らせる。3D映像という新しい表現を、効果的に使い、圧倒的な存在感で、見る者の心に迫る。映像以外、何の説明もいらない。
ベン・リヴァースのスロウ・アクション。長崎の軍艦島など4つの島を舞台に撮影した4つの映像作品を、4つのスクリーンに、それぞれ向かい合うようにして上映した。
目の前で、同じような、神話にまつわる4つの物語が同時に展開されるのは、不思議な感覚を呼び起こす。
ワリッド・ラードのただ泣くことができたら(オペレーター#17)。レバノン軍で、海辺の監視映像を撮る役目を持っていた兵士、オペレーター#17が、本来の目的を忘れ、夕日の映像だけを撮影していた。
兵士はそのことが発覚し、軍を除隊処分になったが、映像は手に入れることが出来た。ラードは、その映像を入手し、自らの作品として公開した。会場では、その生の映像を、編集なしでそのまま流していた。
公の目的で撮影すべき映像を、自らの撮りたいもの映像にしてしまった、という今回の映像祭のテーマにピッタリの作品。
このレバノン人のオペレーターは、山地で生まれ、しかも近くでは戦闘が行われるような環境で育った。いつか、平和な海辺の街で、夕日を眺めるような暮らしがしたいと、ずっと思い描いていたという。
映像表現の現在、そして未来の姿。あるいは、その本来の形とはどんなものなのか。いろいろと思いを巡らせることが出来た、実に興味深い映像のお祭りだった。