2013年2月28日木曜日

映像表現の最前線で〜恵比寿映像祭(東京都写真美術館)



今回で5回目を数える恵比寿映像祭。今回のテーマは、public ⇄ diary。映像は、社会的な記録手段としても使われるし、個人にとっては、日記のようにも使える。その両面の性格に焦点を当てた。

会場の東京都写真美術館のある、恵比寿ガーデンプレイスのオープンスペースに、そのテーマを象徴するような作品が作られていた。


鈴木康広による、記憶をめくる人。上部には、巨大な本のオブジェがあり、その下には、机とその上で、日記のようなメモを書くようなセットが置いてある。


時間が遅くなると、様子が変わるようだが、私が訪れた時は、このままの状態で、その威容を誇っていた。

映像祭は、有料の映画やシンポジウムと、無料の展示会で構成されていた。美術館全体を使っての展示会から、記憶に残ったいくつかの展示を記す。

昭和13年から20年まで、国民の戦意高揚のために発行された写真雑誌、国民週報。生活は大変だけど皆で乗りきろう、という呼びかけや、空襲の時の、避難の仕方、身の守り方などの実用的な情報などが掲載されている。

同じ写真が、時代の変化によって、まったく違う取り扱いを受けている。そのことを、これほどよく表す資材は、他にないだろう。

ヒト・スタヤルのキス。ボスニア紛争で行方不明になった人々を、遺された痕跡から、3D画像で現代に蘇らせる。3D映像という新しい表現を、効果的に使い、圧倒的な存在感で、見る者の心に迫る。映像以外、何の説明もいらない。

ベン・リヴァースのスロウ・アクション。長崎の軍艦島など4つの島を舞台に撮影した4つの映像作品を、4つのスクリーンに、それぞれ向かい合うようにして上映した。

目の前で、同じような、神話にまつわる4つの物語が同時に展開されるのは、不思議な感覚を呼び起こす。

ワリッド・ラードのただ泣くことができたら(オペレーター#17)。レバノン軍で、海辺の監視映像を撮る役目を持っていた兵士、オペレーター#17が、本来の目的を忘れ、夕日の映像だけを撮影していた。

兵士はそのことが発覚し、軍を除隊処分になったが、映像は手に入れることが出来た。ラードは、その映像を入手し、自らの作品として公開した。会場では、その生の映像を、編集なしでそのまま流していた。

公の目的で撮影すべき映像を、自らの撮りたいもの映像にしてしまった、という今回の映像祭のテーマにピッタリの作品。

このレバノン人のオペレーターは、山地で生まれ、しかも近くでは戦闘が行われるような環境で育った。いつか、平和な海辺の街で、夕日を眺めるような暮らしがしたいと、ずっと思い描いていたという。


映像表現の現在、そして未来の姿。あるいは、その本来の形とはどんなものなのか。いろいろと思いを巡らせることが出来た、実に興味深い映像のお祭りだった。

2013年2月23日土曜日

豊潤な美術、貧困な概念〜オリエントの美術(出光美術館)


日本美術やルオー、ムンクなどのコレクションで有名な出光美術館は、オリエント美術の分野でも、国内有数のコレクションを有しているという。

出光美術館で、そうした作品を展示する、オリエントの美術、という名の展覧会が開かれた。

紀元前4,000-3,000年期のイランの壷や食器には、羊などの動物の絵が描かれている。デザイン化された、そのシンプルなイメージは、まるで現代のイラストのよう。当時の人々のデザインセンスの豊かさに感銘を受ける。

紀元前7世紀のエジプトで作成された、朱鷺の青銅の像。まるで、目の前に本物の朱鷺がいるような、その写実的な表現は、壁画の様式的なファラオ像などのエジプト美術のイメージを、大きく裏切る。

文明の発展とともにエジプトに生まれた、そうした写実的な精神は、やがて対岸のギリシャに伝わり、ギリシャ美術を生み出すことになった。

紀元前2,000年頃のシュメールの楔形文字が刻まれた粘土版。人類が、初めて文字を生み出したその現場に、まるで立ち会っているような不思議な感覚を覚える。

ローマ時代に、吹きガラスの技法が生み出されるまでは、ガラスは透明なものではなかった。その技法前と後の作品が一堂に展示され、技術の進歩を目の当りにすることができる。

透明でないガラス器の数々は、現代から見ると、新鮮に見える。

最後のコーナーには、イスラム美術の数々が展示されていた。

イランには、古代より絵画芸術の伝統が息づいている。イスラム教では、偶像崇拝は禁止されているはずだが、イスラム化した後のイランでは、その伝統は途絶えることはなかった。

美しいラスター彩などの陶器には、動物や人物像などの多彩なイメージが描かれている。陶器ということもあるが、その描き方は実に素朴で、微笑ましい。

トルコのイスタンブール近郊のイズニックで生まれたイズニック陶器。現代では再現が難しいといわれる”血の赤”の鮮やかな赤色は、深い印象を残す。

そして、イスラム美術を代表する細密画の数々。イランに生まれた細密画の技術は、インドやトルコにも伝わった。

文字通りのその細かい描写に、思わずガラスに顔を近づけて覗き込んでしまう。一体、どんな細い筆を使って、これらの絵は描かれたのだろうか?インドでは、リスの毛を使っていると聞いた。

それにしても、サイードの有名な本を引くまでもなく、オリエントという概念は、実にあいまいな概念だ。

この日の展覧会は、オリエントの美術という名称だが、時間の長さでは、およそ5,000年間。地域でいえば、イラン、イラク、エジプト、トルコ、そしてローマ。

つまり、時間的にも地理的にも、ほとんど人類史に近い範囲をカバーしていることになる。

オリエントの名を冠して開催されたこの展覧会は、皮肉にも、その美術の豊潤さと、その概念の貧困さを、明確に対比することになった。

2013年2月20日水曜日

メディアアートの現在〜文化庁メディア芸術祭受賞作品展(新国立美術館)

東京、六本木の新国立美術館で開催された、第16回文化庁メディア芸術祭の受賞作品展を訪れた。

入場が無料ということもあり、学生や若者、スーツ姿のサラリーマンなど、様々な人々が会場を訪れていた。

展示スペースは、4つのコーナー、アート部門、エンターテイメント部門、マンガ部門、アニメーション部門に別れている。


アート部門の大賞は、スイスのCod.ActのPendulum Choir。男性のコーラスグループが、鉄の棒のような物の先に固定され、歌に合わせて、ゆっくりと振り回されている。

何が言いたいわけではなく、ただ、インパクトのある映像表現。ビジュアルアートの特質をよく表している。


三上晴子の欲望のコード。人がカメラの近くによると、センサーがそれを捉え、人の動きに合わせて、カメラが追尾し、その映像を撮影する。その映像が、地球のような球体の画面に映される。


震災をテーマにした作品も、何点か目についた。これは、佐野友紀のほんの一片。震災で発生した瓦礫を、写真にとったうえで、彩色した作品。

圧倒的な力を持っている作品。何の説明も必要としない。


エンターテイメント部門の大賞は、Perfume "Global Site Project"。Perfumeの音楽に合わせて、様々なバリエーションの3人組のユニットが、映像の中で踊っている。


水道橋重工のKURATAS。ガンダムの世界から飛び出してきたようなロボットが、都心を走り回る映像は、強烈なインパクトがある。


アニメ部門は、他の部門に比べると、展示のインパクトの度合いは低いが、展示されているデッサンを、多くの人が覗き込んだり、写真をとったりしている。

こんな時代だからこそ、ペン一本で世界を表現しようとするマンガには、存在感がある。

最後は、アニメーション部門。大賞は、大友克洋の火要鎮。

会場には、モンキーパンチのルパン3世や、宮沢賢治の童話を映像化した、グスコーブドリの伝記、などのお馴染みの作品も並ぶ。

他のアート展のような堅苦しさもなく、会社帰りや昼休みに気軽に楽しめる内容だった。

何となく、若手の登竜門のようなイメージをこれまで持っていたが、大賞の受賞者をみると、そうではないようだが、何となく、納得のいかない思いも、心に残った。

新国立美術館の会場以外にも、いくつかのサテライト会場があり、関連するイベントを行っていた。


これは、東京ミッドタウン。”あなたは六本木をどうデザイン&アートの街にしますか?”というアンケートを実施していた。

2013年2月17日日曜日

日本の美の源流を尋ねて〜琳派から日本画へ(山種美術館)


東京、広尾の山種美術館で、琳派から日本画へ —和歌のこころ・絵のこころ— という名前の展覧会が開かれた。

会場に入り口に、俵屋宗達の絵、本阿弥光悦の書による、鹿下絵新古今和歌集和歌巻断簡、が飾られていた。

下絵の中央に、宗達の絵による、鹿が佇んでいる。その左右に、光悦の筆によって、西行の和歌が書かれている。

琳派は、この二人によって始まった。それは、平安時代に盛んに書かれた、美しい色紙の上に、和歌を書く、という形式を、新しい形で再現することから始まった。

続く展示品は、そうした平安時代の美しい書の数々。

たった一人で、5,000巻を越える一切経を書ききった藤原定信による貫之集や和漢朗詠集、その父の藤原実光による古今集、定信の子の藤原伊行による和漢朗詠集など。

美しい和紙の上に、美しい文字が並んでいる。悲しいことに、同じ言葉を使っているはずなのに、その文字が読めない。隣に並べられている、楷書による和歌をみないと、そこに書かれているものがわからない。

しかし、その文字は、造形的にも、見ていて美しい。

戦国時代に連歌師として、織田信長、豊臣秀吉、細川幽斎などと交流も持った里村紹巴が書いたという、連歌懐紙。

こちらも美しい下絵の上に、紹巴のダイナミックな筆使いの漢字や、繊細な筆使いのひらがなが並んでいる。

琳派の絵師たちは、絵の題材として、平安時代に生まれた物語からの場面をよく取り上げた。

俵屋宗達による、源氏物語 関屋・澪標。酒井抱一による、伊勢物語からの宇津の山図など。

そして、近代の日本画の画家たちも、そうした琳派の伝統を引き継いでいった。

横山大観の竹。何本かの竹が、絵の中で重なりあっている。大観は、墨の濃淡で、その重なり具合、遠近感を表現する。

竹の葉は、一筆で、まるで、文字を書くようなタッチで描かれている。下絵の上に、文字を重ねる伝統を、まったく新しい視点で捉え直していて、とにかく、美しく、素晴らしい。

速水御舟の紅梅・白梅。左側の白梅は、細い枝が、左中央付近から、右上にまっすぐ伸びている。よく目を近づけると、細い筆で、一本線で、まるで文字のように描かれている。

そうした作品の中では、文字と絵が一体となっている。画家の筆から描かれるものは、文字でもなく、絵でもなく、単なる、”美しいもの”、にすぎない。

日本の美の源流に、たどり着いたような、そんな気持ちで会場を後にした。

2013年2月16日土曜日

伝説とコピー〜書聖 王羲之展(東京国立博物館)


上野の東京国立博物館で、書聖 王羲之展が開催された。

それにしても、不思議な展覧会だ。王羲之、Wang Xizhiの名前を冠しながら、その本人の書いた、いわゆる真筆は、1点も展示されていない。

レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロの名前が冠される展覧会でも、最低でも、デッサンなども含め、最低1点は何らかの作品が展示されるのが通例だ。でないと、”金を返せ”ということになりかねない。

しかし、こと王羲之に関しては、そんな文句を言う人間はいない。なにしろ、現在、王羲之の真筆を展示できる美術館は、世界中を探しても、どこにも存在しないからだ。

書聖といわれる王羲之の、最高傑作と言われているのが、蘭亭序。本人も、この書が一番良く書けた書であると、認めていたという。

この展覧会では、会場の一角をすべてこの蘭亭序にあてていた。

東晋の永和9年(353)3月のある日。紹興酒で有名な紹興の蘭亭というところで、王羲之が主宰する酒宴が開かれた。そこで、詠まれた数々の詩が詩集として編まれ、王羲之がその序を書いた。それが蘭亭序だ。

唐の大宗皇帝は、王羲之を愛し、とりわけこの蘭亭序を愛した。その愛は度を超しており、ついに、遺言で、自分の死後、自らの墓に、その真筆を収めることを命じた。

王羲之は確かに優れた書を書いたが、この唐の大宗皇帝の偏愛によって、王羲之は一流の書家から、伝説になった。皇帝の権威が、王羲之を特別な存在にした。

その後、長い歴史の過程で、王羲之の真筆はすべて失われ、そのコピーだけが今日に伝わっている。勿論、この展覧会でも、展示されているのは、すべてコピーだ。

20点以上の蘭亭序のコピーが展示されている。その様子は、別な意味で壮観だ。

文化とは、芸術とは、ある意味では、コピーする、ということなのかもしれない。生物も、遺伝子を通じて、その存在をコピーしている。

この展覧会では、王羲之のコピーとともに、王羲之に至る書の歴史を学べるように、甲骨文字や青銅器に彫られた、古代中国の文字や、石に彫られた書なども展示されていた。

王羲之の時代は、紙に文字を書くことが一般化し、それまでの文字の書き方が大きく変わった時代だった。

それまでの公だった文字の使用が、知人への手紙などの個人的な用途に使われるようになった時代だった。

そうした王羲之の手紙や書簡には、神話や歴史上の出来事ではなく、王羲之の知人への細かい配慮、先祖の墓を荒らした蛮族への怒り、自分の何気ない日常、などが書かれている。

折しも、中国と日本の間には、尖閣諸島問題などの政治的な問題がホットな時期であり、この展覧会に展示される予定だった、展覧会の目玉となるいくつかの名品も、出展されなかった。

一部のアメリカ、香港から出品された作品を除き、ほとんどは国内の美術館や博物館からの出品だった。それでも、王羲之の展覧会としては、その伝説に相応わしい、内容だった。

このことは、いかに、この国の人間が、伝説となった、この書聖のコピーを尊んできたのかを、表していている。

そして、会場には、日本人よりも、むしろ、中国語を話している人の方が、多かったようにも思えた。

2013年2月14日木曜日

日本画の極地がそこに〜画の東西展(大倉集古館)


ホテルオークラにある、大倉集古館で、自らのコレクションを中心とし、江戸と京都を代表する日本画を紹介する、画の東西、という展覧会が開催された。

入口を入ると、いきなり、竹内栖鳳の蹴合が、来場者を迎える。2匹の闘鶏が、文字通り蹴り合おうとしている、その直前の瞬間を捉えた作品。

その2匹の間にある、緊張感を見事に表現したその作品は、静のイメージの強い日本画とは違った、もう一つの凄みを感じさせる。

そこに描かれている闘鶏が、まるで、偉大な勇者のように感じられる。動物を描いて、そこに、崇高さまで感じさせる、竹内栖鳳。さすがだ。

1階は、東西のうちの、東の画家の作品が並んでいるが、そのちょうど反対側には、横山大観の瀟湘八景の中から、3つの作品が並んでいた。

色鮮やかな闘鶏から一変。墨の濃淡だけで描かれた、大観独得の世界。

全体は、ぼかして描いて、しかし、細かい筆で、小さく家々や人物を描く。その絵を見る者は、まずは遠くからじっくりと眺め、次に、近づいて、その家々や人々を眺める。

特に、瀟湘夜雨という一枚。ぼかしの技法で、湖沿いの風景の湿気や霞まで捉えている。日本画の一つの極地が、そこにはある。

まだ2点の作品しか見ていないが、すでに、お腹いっぱいだ。

2階に上がると、今度は西の絵画。まずは、素朴な大津絵が来場者を迎える。子供が描いたような、その素朴な絵の数々に、思わず顔と心が緩む。

伊藤若冲の珍しい絵巻物、乗興船が展示されていた。夜の琵琶湖沿いの風景画。空を真黒に描き、湖水の風景を、薄い黒で描く。その発想の匠さに、思わず唸ってしまう。

そのほかにも、東からは、呉春、川合玉堂、西からは、英一蝶、円山応挙、狩野探幽らの作品を味わえる。

出店数は、わずか30点ほどだが、日本画とは何か、その1つの答えを与えてくれる、心に強い印象を刻む展覧会だった。

2013年2月12日火曜日

笠間でフィンランド陶磁器を堪能する〜アラビア窯展(茨城県陶芸美術館)


茨城県、笠間市の笠間芸術の森公園にある、茨城県陶芸美術館で、アラビア窯—フィンランドのモダンデザイン、という展覧会が開催された。

笠間市を訪れるのは初めてだった。東京から電車でおよそ2時間。笠間焼の里で、遠い北欧、フィンランドの陶器を味わえるとは、なんとも贅沢な展覧会だ。

訪れた時が、2月の3連休ということもあり、美術館のある笠間芸術の森公園では、いくつかのイベントも開催されていて、多くの家族連れが訪れていた。

その人並みを縫うようにして、展示会場に向かう。


展示品のほとんどは、岐阜県現代陶芸美術館のコレクション。およそ、100点程の、20世紀初頭から今日までの作品が、整然と展示されていた。

ヘルシンキ郊外のアラビア地区で、アラビア窯が創業したのは、まだフィンランドがロシア帝国の一部だった、1873年のこと。そのシンプルなデザインは、ヨーロッパ各地で開催されていた万国博覧会において、高い評価を受け、その存在は、次第に世界で知られるようになった。

折しも、フィンランドの地において、ナショナリズムの運動が高まっていた時期だった。フィンランドは1917年にロシアからの独立を果たし、アラビア窯はフィンランドを代表する陶磁器メーカーとなる。

展示品の中では、やはり、カイ・フランクがデザインした『キルタ』シリーズの存在感が群を抜いていた。余計なものをすべて削ぎ落としたシンプルなそのデザインは、北欧デザインの象徴でもある。

カイ・フランクは、1945年にアラビア窯のデザイナーとなり、アラビア窯を世界的な陶磁器メーカーに押し上げた。その後、イッタラ社でガラスのデザイナーにもなった。ちなみに、アラビア窯は、現在ではイッタラ社のグループ企業になっている。

カイ・フランクは、”日本文化の研究者”といわれるほど、日本の文化に精通していたという。そういわれてみれば、そのシンプルなデザインは、日本の禅の精神を連想させる。

そのカイ・フランクのシンプルさとは対局にあるデザインを生み出したのは、
ビルガー・カイピアイネン。一本の木に、オリーブやブドウなどがなっている、そのやわらく、鮮やかなデザインは、その皿にならべる食材を、より美味しそうに感じさせる。

展示品は、そうしたカイ・フランク系のシンプルでモダンなもの、カイピアイネン系の華やかなイラストの描かれたもの、そして、伝統的なコーヒーセットのようなもので構成されていた。

一方、茨城県陶芸美術館の常設展示場には、笠間焼のみならず、萩、備前、志野などの焼き物が展示されており、全国の陶器の特徴を知ることができる。


笠間芸術の森公園には、笠間焼を日本有数の陶器の産地に育て上げた、田中友三郎を記念する碑が建てられていた。田中は幕末に美濃の地に生まれた陶器商だったが、笠間焼の質の良さに注目し、窯を買い取り、明治後の東京の品評会で何度も受賞するまでに、笠間焼を育て上げたという。

これまで全く知らなかった、その田中友三郎という人物の生涯は、心に深い印象を刻んだ。

2013年2月9日土曜日

トレドと上野でグレコの絵を見て味わった感動〜エル・グレコ展(東京都美術館)


上野の東京都美術館で開催された、エル・グレコ展を見た。

世界中の美術館から、50点を越える作品が集結した、大規模なこのグレコ展にあって、その目玉とも言えるのが、会場の最後に展示されていた、無原罪のお宿り、だった。

3メートルを越えるその大作が、展覧会の最後の部屋で、観客を出迎えている。

キリストの母である聖母マリアが、原罪を持たずに生まれた、というキリスト教の教えをテーマとした絵画は、グレコのみならず、ムリーリョを始めとして、多くの画家が描いている。

このグレコの作品は、そうした数ある作品の中でも、最も印象的な作品の一つだろう。

画面の中央には、この絵の主人公である聖母マリアが、グレコ独特の、引き延ばされた存在として描かれている。

地上にはトレドの風景が描かれ、精霊の一人が、聖母マリアと地上の間で翼を広げている。野に咲く、薔薇とユリの花は、聖母マリアの象徴でもある。

聖母マリアの上半身は、すでに天上界に届いており、マリアの顔を中心に、円を描くように、精霊や天使が描かれている。

マリアの目は、羽ばたく一匹の白い鳩を見つめている。グレコの絵にたびたび登場するその鳩は、神からのお告げをマリアに伝えている。

この絵は、トレドのある礼拝堂の主祭壇を飾るために描かれた。およそ6年の歳月をかけて描かれ、グレコは、この絵を完成した翌年に、73才で亡くなっている。

この絵の印象があまりに強烈なため、この日、それまでに見てきた絵を忘れてしまいそうだ。

しかし、この展覧会には、グレコが生まれたクレタ島にいたころに描かれたと考えられるイコン画や、スペインに行く前に、ローマで描かれた作品など、普段は、あまり目にしない貴重な作品も展示されている。

宗教画と並んで、グレコが数多く描いた肖像画も多く展示されており、印象に残った。

グレコの肖像画は、顔の表情は勿論のこと、手先の描き方に特徴がある。何かを掴んでいたり、自分の胸に手を当てていたり、あるいは、本のある箇所を抑えている手など。

その描かれている人の性格、そのコンテキストに応じて、その人物の特徴をもっともよく表す手の表情をグレコが模索していたことが、見て取れる。

数年前に、グレコの絵を求めて、トレドの町を訪れれたことがあった。古いトレドの町は、細い通りが入り組んでおり、その中を、グレコの作品を展示している美術館や教会を求めて、一日中、歩き回ったことを思い出す。

展覧会の会場は、入り口から出口まで、広い一本道で、道に迷うことはない。しかし、グレコの絵を見ることで味わえる感動は、あの日の感動と、同じものだった。

2013年2月8日金曜日

銀座の街中で山と森の精霊と遊ぶ〜リクシルギャラリーにて

銀座にある、リクシルギャラリーで、山と森の精霊、という名の展覧会を見た。

気をつけていないと、通り過ぎてしまうそうな、細長いビルの2階に、リクシルギャラリーは、あった。

ついさっきまで、サラリーマンとすれ違っていたが、会場に入った途端に、九州の山奥にある、神楽の舞台に放り込まれた。


会場には、宮崎県の高千穂、椎葉、米良の神楽の様子を撮影したビデオ、写真などが展示されていた。

宮崎は、天孫降臨神話の地でもあり、国内でも飛び抜けて多い、300以上の神楽が伝えられ、今でも地元の人々によって演じられているという。

壁で区切られた、小さな空間に入ると、目の前に、多くの仮面がガラスの向こうの壁に、整然と並んでいた。

それらは、実際に、使われてきたものらしい。

まずは、その種類の多様さに驚かされた。

鬼、翁、女性、ひょっとこなどの仮面は勿論のこと、アフリカやポリネシアにあるような仮面、スターウォーズのダースベイダーのような仮面などもある。

ひとつひとつの仮面を、じっくりと対面する。どれも技術的には稚拙に思えるが、独特の味わいがあるのがよくわかる。

銀座の街中の、こんなに小さなスペースで、山と森の精霊の世界に遊ぶとは、なんとも贅沢で、豊かな時間だった。

2013年2月3日日曜日

漆の多様な世界を見る〜日本の漆−南部・秀衡・浄法寺を中心に


日本民藝館で開催された、日本の漆−南部・秀衡・浄法寺を中心に、という展覧会を見た。

日本民藝館の漆の工芸品のコレクションの中から、いわゆる南部漆を中心にし、その他の各地の漆の工芸品が展示された。

南部の漆椀は、秀衡椀、浄法寺椀などの種類があると言われる。秀衡とは、平安時代末期に奥州で勢力を誇った奥州藤原氏の3代目の当主。源義経を保護したことでも知られる。

実際には、そうした漆椀は、藤原秀衡とは直接の関係はないようだが、その名前が南部を代表する工芸品に名前を残しているという事実に、南部の人々が、藤原秀衡をどのようにみていたかがわかり、興味深い。

黒字の椀に、赤い漆でいろいろな絵柄が描かれている。鶴や松などの絵柄が目に付く。その形は、他の地方ではあまり見かけないもので、この地方の独自性が、よく表れている。

また、漆を使った蒔絵や、卵の殻を貼付けたもの、漆を革の上に塗った工芸品も展示されていて、漆が多くの工芸品に使われていることがよくわかる。

沖縄の漆椀は、真っ赤一色。しかし、その鮮やかな色合いは、強烈な印象を心に刻む。

南部の漆椀は、交易を通じて、アイヌの人々の間でも使われた。アイヌの人々は、そうした品々を、大切に使い、多くが今日まで伝えられた。動物や植物の文様が彫られた神具が展示されていた。

漆の木は、日本をはじめ、中国、韓国、東南アジアに生息している。中国や、タイ、ベトナムなどの漆の工芸品が展示されていた。いずれもやや小振りだが、東アジアや東南アジアの文化の共通性が感じられる。

漆の多様な用途、そしてその国際性も感じられ、漆の世界を満喫できた。

2013年2月2日土曜日

古代中国の不思議な生き物たち〜新春展 吉兆のかたち

東京、六本木にある泉屋博古館で開催された、新春展 吉兆のかたちを訪れた。

展示は、古代中国の青銅器と、新年に相応しい花鳥風月を描いた近世、近代の日本絵画で構成されていた。

青銅器コレクションといえば、根津美術館のものが有名だが、この住友コレクションのものも、なかなかのものだった。

古代中国の青銅器には、不思議な動物の文様が描かれている。中でも、饕餮、という牛あるいは羊や虎、人などが組み合わされた想像上の生き物は、とりわけ深い印象を残す。

青銅器の四隅の橋に、大きな二つの目と角が描かれている。その文様の細かさ、複雑さに、思わずガラスすれすれに目を近づけてしまう。そして、顔の周りには、渦巻き模様が細かい線で彫られている。

もし、1つでもそうした青銅器を所有していたら、一日眺めていても、飽きることなく、見るたびに、新しい発見があるに違いない。

饕餮が描かれた青銅器は、商や周という、秦による中国統一以前の古代国家の遺跡から、多く出土されている。

器に描かれいるのは、魔除けの意味があったというが、どうして酒や食べ物を入れる器に、魔除けが必要なのか、よくわからない。食べ物がおいしくなるようにとか、毒が入らないように、などの意味があるのだろうか。

同じ、商や周の時代の青銅器には、竜も描かれている。竜は、その後、統一中国の皇帝を象徴する存在となった。しかし、この時代の青銅器を見ていると、饕餮の方が圧倒的な存在感を誇っている。

どうして、饕餮でなく、竜が皇帝の象徴になったのかは、興味深いテーマだ。

戦国、春秋時代になると、青銅器の文様は、一気にシンプルな物に変わってくる。明らかに、人々の意識が変わったことを表している。合理的な考えを持つようになったのだろう。

現代でも、再現することが困難なほどの複雑な文様の青銅器を作っていた時代の人々の創造力は、失われてしまったのだろうか?

ガラスの向こうに並べられている奇跡の青銅器たちは、何も言わず、その精巧な文様を、これでもかと、こちらに見せつけていた。