2012年10月26日金曜日

出雲という不思議な土地について〜『出雲 聖地の至宝』展より

東京の国立博物館で、古事記編纂1300年を記念して、『出雲 聖地の至宝』展が開催された。

会場は、ちょうど中国関連の大きな展覧会が開催されていたこともあり、本館の空いたスペースを使って、第1会場と第2会場に分かれていた。

第1会場を入ったすぐの所に、古事記の写本が展示されていた。古事記は、1300年前に編纂されたといわれているが、実はその最も古い写本は、南北朝時代のもの。展示されていたのも、その南北朝時代のものだった。

つまり、編纂されてから、およそ600年後の写本しか残っていない。本当に、編纂時の内容が、その写本通りだったのかどうかは、誰にもわからない。

第1会場の一番奥には、この展覧会の目玉の一つである、出雲大社の10分の1の再現模型が展示されていた。言い伝えによれば、およそ50メートルもの高さがあったというが、その他の神社とは全く違う構造には、自然と”どうしてこんなに高い社を造ったのだろう?”という疑問がわいてくる。

そして、第1会場の中央には、鎌倉時代に作られた巨大な杉の柱、宇豆柱。2000年の発掘調査で発見された、その直径1メートル以上の3本の柱は、見るものを圧倒する。

この柱が発見されるまでは、50メートルの高さの社の信憑性は低かったが、この柱の発見で、俄然、その信憑性が高まった。

第2会場には、この展覧会のもう一つの目玉が展示されていた。それまでの考古学の常識を覆す、荒神谷遺跡の358本の銅剣と、加茂岩倉遺跡の39個の銅鐸の1970年代の発見。それまでは、近畿の銅鐸文化と九州の銅剣文化、などといわれていたが、その両方が出雲で発見された。

考古学も含めた、歴史という学問の限界を思い知らされる。いくら立派な理論を展開し、周りを説得していたとしても、実際の物が出てきてしまえば、理論は何の意味もなくなる。

会場には、荒神谷遺跡の銅剣と、加茂岩倉遺跡の銅鐸が、それぞれ何点かが展示されており、学者達の論争をあざ笑うかのように、”もの”としての、文字通りの存在感を、これでもかと主張しているようだった。

しかし、出雲という土地は不思議な土地だ。古事記に書かれている神話のうち、およそ3分の1は、大国主命や須佐之男命などの出雲神話からなっている。しかし、その割には、その後の歴史に中には大きな位置を占めてはいない。

また、同じ時代に作られた全国の風土記のうち、今日、完全な形で残っているのは、『出雲風土記』のみ。

そして、この荒神谷遺跡の銅剣と、加茂岩倉遺跡の銅鐸の発見。出雲大社の宇豆柱の発見・・・。

どうも、出雲という土地は、現代の私たちに、どうしても過去の自分たちの姿を、なんとかして伝えようとしている、そんな気がしてならない。偶然という言葉では、決して片付けられない、何ものかを感じてしまった。

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