2012年11月10日土曜日

血みどろの浮世絵を描いた月岡芳年の繊細な心


若者が、文字通り溢れ帰る原宿の町。横道を一歩入った所に、この場所にまるで相応しくない、浮世絵太田記念美術館がある。

浮世絵ファンにとって馴染みのこの美術館で、俗に最後の浮世絵師といわれる、月岡芳年の没後120年を記念する、大回顧展が開催されていた。

月岡芳年は、幕末間近の江戸に生まれ、近年注目を浴びている歌川国芳に13才で弟子入りし、その後、幕末から明治初期にかけて活躍した。

展示は、年代別に展示され、芳年の画風の変化を辿ることが出来る。

芳年は、わずか15才で独立した絵師としてデビューした早熟の天才絵師だったが、その頃の作品は、はっきりいって師匠の国芳の影響をもろに受けている。

幕末の直前にその国芳が亡くなり、芳年は時代の大きなうねりの中で、独自の画風を身につけていく。それが、芳年の代名詞となる、真っ赤な鮮血が画面を覆う、グロテスクな浮世絵だった。

「英名二十八衆句 直助権兵衛」。権兵衛が憎き仇を殺した上に、素手で相手の顔の皮を剥いでいるの図。凄惨なその絵を見ていると、次第にこちらの気分も悪くなってくるようだ。

描いている芳年の方も、あまりいい気持ちはしなかったろう。しかし、このいわば”血のシリーズ”はヒットし、芳年は、次々に、血のシリーズを描き続けていった。

時代が明治に変わり、浮世絵師を取り巻く背景も変わっていた。そうしたいろいろな要素が重なって、芳年は、次第にその精神を蝕まれていくとになる。

明治の時代になると、芳年の絵のテーマは、上野の山の戦い、西南戦争など、世相を反映したものになっていった。ある意味では、文字通りの”浮世絵”だった。

江戸時代は、徳川幕府の厳しい既成の中で、浮世絵師はそうした政治的なテーマを真正面から描くことは出来なかったが、時代が変わったということなのだろう。

芳年は、そんな中でも売れっ子の浮世絵師として活躍していたが、精神の病が悪化して、明治25年に54才の若さで亡くなった。晩年の作品になるにつれて、次第に、その描く線が、細く繊細になっていた。

月岡芳年という人物は、その描くショッキングな作品とは裏腹に、内面は、繊細な心の持ち主だったのかもしれない。

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