2012年11月23日金曜日

アート作品の森を巡る〜第44回日展より


第44回目の日展が、六本木の新国立美術館で開催された。

日本画353点、洋画772点、彫刻276点、工芸美術625点、そして書1,117点。総数3,143点。それらが、広い新国立美術館の1階から3階にかけて、9つの部屋に分けて展示されていた。

見終わった印象は、とにかく疲れた、ということだった。

これほどの作品が並んでいると、ゆっくりと1点1点を鑑賞するという感じではない。それぞれの部屋を、ぶらぶらと歩きながら、時々、目を引いた作品の前で立ち止まり、またしばらくすると、ぶらぶら歩くといった感じ。

それは、まるで、アート作品の森を巡る、という印象だった。あるいは、ジャングルといった方がいいかもしれない。

そうした鑑賞の仕方からかもしれないが、どの作品も、”ああ、どこかで見たなあ”とか、”これはXX風の絵だな”と感じられた。

これほど、大きな美術団体の中からは、革新的な作品は、生まれないのかなあ、とも思われた。

現代の作家は、あまりにも多くの情報を与えられている。世界中の、あらゆる時代の芸術作品が、直接あるいは間接的に鑑賞でき、その技法は研究され尽くしている。

学ぶことが多すぎて、新しいものを作る、というところにまで、心が向かないのだろうか?

みる立場からすれば、私の中には、すでにアートに対する分類表みたいなものが出来ていて、目にするものを、すべてそのどれかに当てはめようとしているのかもしれない。

その意味では、自分自身のアートを見る視点についても、あらためて、考えさせられた。

一番面白かったのは、書のコーナーだった。それまで、色とりどりの絵画作品や工芸作品をみてきたせいか、3階の、一番最後の9番目に訪れたスペースに入った時に、その白と黒だけの世界が、実に新鮮だった。

他のアート作品に比べて、制約条件が多い書だからこそ、作家の個性が、際立って表現されるのかもしれない。

毎年、この時期に開かれる日展は、個々の作品を楽しむというよりは、アートそのものについての、現状や本質を考える、いい機会でもある。

2012年11月18日日曜日

この国は文字の王国だ〜五島美術館名品展から


2010年秋から、およそ2年の期間をかけて改修のため閉館していた五島美術館が、この秋に再開された。

その再開に合わせて、4回にかけて、その主要な所蔵品を紹介する、”時代の美”と題された特別展が開催される。その1回目は、奈良・平安編。

その第1回目の目玉は、何と行っても、この美術館を代表する所蔵品、平安時代後期、12世紀に作成され、日本で一番古いといわれる絵巻、「源氏物語絵巻」。

この作品は、開催中の後期に展示された。前期に訪れた際は、人影もまばらで、ゆっくりと鑑賞できたが、後期はさすがに凄い人出。「源氏物語絵巻」の前には、長い行列が出来ていた。

当館の所蔵する、鈴虫一、鈴虫二、夕霧、御法の4つの全てが展示されていた。

およそ千年前に描かれた絵巻物を目にすると、よくぞ今日まで、失われずに残されてきたなあ、と思わざるを得なかった。この物語に対する、この国の人々の、深い思い入れや愛情を、改めて感じさせられた。

中でも、夕霧の巻の絵画は、光源氏が、自分の正妻、女三宮と、自分の息子の友人、夕霧との不倫の証拠となるラブレターを見つける、という決定的な場面。女三宮は、慌ててその手紙を奪おうとするが、すでに光源氏はその内容をまさに読んでしまったところ。

今日の、テレビのホームドラマにもよく登場するようなシーン。人間の本質は、千年たっても全く変わっていない。

”引目鉤鼻”といわれるその人物表現は、人物の顔立ちで、その人物を区別するのではなく、その人物の洋服や、行動でその人物を区別する。この「源氏物語絵巻」はその典型。物語を知っている人物が見れば、どう見ても同じようにしか見えないそれらの人物を、きちんと特定できてしまう。

そうした絵もさることながら、詞書もすばらしい。文字通り、遠目には、みみずがはっているようにしかみえない、そのやわらかい漢字まじりの仮名の表現。残念ながら、今日の私たちの多くには、一部を除いては、その文字さえ判別できない。単に、その造形的な美しさを感じることしかできないのが、悲しい。

それ以外の展示品では、全般的に、文字に関する展示品が多かった。

長屋王、光明皇后といった天皇家の人々が、願いを込めて収めさせた膨大な写経。すべて、8世紀のもの。当時の、仏僧達が、一字一字、丁寧な表現で、仏典を写している。

文字の価値が薄れつつある現代人には、単なる漢字の羅列だが、当時これを書かせた人にとっても、書いた人にとっても、仏典の言葉の一つ一つには、大きな力が宿っていた。

この国の人々は、もともと文字をもたなかった。言葉は、口から口に伝えられるものとされ、それを文字にするという考えはなかった。

中国から文字というものが伝わり、その文字に、自分たちがそれまで使っていた言葉を当てはめていったが、やはり、どこかしっくりしないものを感じたのだろう。中国の漢字をもとに、当時の人々は、この国特有の文字を作り出した。

角張った漢字に比べ、その”仮名”といわれる文字は、筆で描くと、続けて書くことができ、その筆跡の美しさを、やがて競うようになっていった。

展示会場には、その名手達、紀貫之、藤原行成、藤原公任、小野道風、藤原俊成、藤原定家などの、美しい、ひらがなの古筆が展示されていた。

漢字、ひらがな、そうした文字を、この国の人々は、中国の影響を受けながら、自分たちの独自性を加味しながら、書き、それを鑑賞してきたのだ。

その意味では、この国は、文字の王国、とでも言うことができる。

五島美術館の再開記念の収蔵品点は、全4回。来年の3月まで続けられる。しばらくは、上野毛の静かな住宅街に佇む、この小さな美術館に詣でる習慣が続きそうだ。

2012年11月17日土曜日

あまり知られていない明・清代の水墨画の世界〜泉谷博古館


六本木一丁目の泉ガーデンタワーの傍らに、ひっそりと存在する泉谷博古館。その10周年を記念する特別展の第4弾では、中国の明、清代の個性的な画家の作品を中心にした、住友コレクションが展示された。

清の時代には、異民族による王朝の成立、西洋の影響を受けて、宋以来の伝統的な水墨画とは違った、独自の水墨画が生まれた。

この展覧会では、日本では、あまりまだポピュラーではない、そうした水墨画の数々を、十分に楽しむことが出来た。

展覧会の目玉になっていたのは、八大山人の「安晩帖」。ほぼ真四角の手帖の1ページに、鳥や猫、植物などが、まるで抽象画のような、独自の筆さばきで描かれている。

日本人が特に好む、牧谿のようなその水墨画の数々は、確かに見応えがある。およそ20枚ほどある作品は、会期中にページをめくり展示替えされている。

私が訪れた際は、木の枝に、一羽の鳥が止まっている、という図が展示されていた。一筆ので描かれた枝の線、その上に止まる鳥は、墨の太い線と、細い線で描かれている。ほとんどが何も描かれていない空白だが、その微妙な配置は、まさに絶妙。

八大山人は、明末期に王族につながる家庭に生まれたが、清王朝の成立で状況が一変し、複雑な人生を送った人物。彼には、絵を描く明確な理由があったのだろう。

同じく清時代の漸江の「竹岸蘆浦図巻」。水墨画には珍しく、ほとんどが細い線だけで描かれている。無数の竹の葉を、細かい線で丹念に描いている。これまでに見たことがないような、不思議な水墨画だ。

沈銓の「雪中遊兎図」。中国では無名の画家でありながら、日本の長崎で3年暮らし、円山応挙などの京都の画家に大きな影響を与えた。その鮮明で色鮮やかな画風は、伊藤若冲の作品にもその影響の跡を残している。

展覧会の出品作の中で、唯一の国宝。南宋時代の「秋野牧牛図」。文字通り、秋の野に、牛を放牧している風景。人物はわずか二人。一人が相手の耳を掻いてあげている。数頭の牛達は、歩いたり、身を横たえたりと、思い思いに秋の日をくつろいでいる。

これぞ、宋代の水墨画の典型といえる、人間と自然の理想を描いた心象風景。いつまでも見ていたい水墨画だった。

奇跡を目にした幸福をかみしめる〜日本民藝館における沖縄の紅型展より


日本民藝館で、開催された、琉球の紅型、展を見に行った。ふだんは、作品の保護のために展示されていない貴重な紅型コレクションが、沖縄復帰40周年を記念して、特別に公開されていた。

かつて、沖縄の紅型を、初めて目にした時の衝撃を、言葉で表現することは、至難の業だ。同じ衝撃を味わったことがある人は、この言葉に、同意していただけると思う。

民藝運動の主導者で、この日本民藝館を創設した柳宗悦は、紅型も含めた沖縄の織物について、かろうじて、次のように表現している。

(織物において)”沖縄に匹敵し得る地方は、日本の何処にもありません。”

その唯一無二の沖縄の紅型が、日本民藝館の大展示室に鮮やかに並べられている光景は、まさに圧巻だった。

紅型を前にして、まず眼に飛び込んでくるのは、その色だ。黄色、赤、ピンク、青など、日本の他の地方では、あまり目にすることのない原色が、とにかくまず私の眼を奪う。

そうした鮮やかな色合いは、マレー地方やシンガポールでよく目にする、華僑のプラナカン文化の器や着物を連想させる。

そして、次に、そこに表現されている様々な文様に眼がいく。日本人には馴染みの鶴や亀、菖蒲や松、といったものもあれば、竜などの中国風なものもあり、沖縄の風景を表現したものある。

そうした紅型を見ていると、これは、中国や日本の文化とは、明らかに異なっている文化の産物であるということがよくわかる。

かつて沖縄は、中国や日本のみならず、東南アジアの国々と交易を行っていた、独立した王国だった。色鮮やかな、他に類を見ない、紅型の数々は、明確に、そのことを証明している。

しかし、太平洋戦争による沖縄戦は、およそ10万人にも上る沖縄の民間人の死者とともに、紅型を始めとする貴重な沖縄の文物を破壊してしまった。

今日残っている紅型の多くは、戦前に本土に持ち込まれ、保管されてきたものだ。中でも、柳宗悦が持ち帰った日本民藝館のコレクションは、その存在自体が奇跡、とも言われる貴重なもの。

今、このブログを書きながら、そうした奇跡を目の当りにできた幸福を、今さらながに、一人かみしめている。

2012年11月11日日曜日

「間」と「メリハリ」の琳派芸術


日比谷の出光美術館で、琳派芸術Ⅱ、という展覧会が開催された。

これは、2011年3月に開催中だった展覧会と同じ名前だが、東日本大震災のため途中で中止され、構成を少し変えて、再び開催したもの。震災の影響は、こんなところにも及んでいた。

会場の入り口付近に展示されていた、酒井抱一の風神雷神図屏風。俵屋宗達、尾形光琳のものとは、少し趣を変え、やや軽めに描た風神雷神図。

しかし、この3人に共通するのは、独特な空間感覚、いわゆる”間”。日本の芸術一般に共通するこの”間”の感覚を、琳派の作品では、より強く感じる。

左右に分かれた風神と雷神を微妙な距離に分ける間、そして、両者は横一線ではなく、かすかに上と下にずれて配置されている。

酒井抱一の八ツ橋図屏風。こちらも尾形光琳の作品を元にしている。この作品では、橋の両側に菖蒲の花が連なって咲いているが、ところどころに、何もない空間が配置されている。その微妙な間こそが、この作品に独特なリズムを与えている。

伝統的な西洋の絵画では、絵の中に何の色も置かれていない空間などありえない。それは、神の作ったこの世界が完璧でないことを意味し、神への冒涜となる。

仏教においては、色即是空、この世のすべてのものは、すべて幻。恒久的なものは存在しない。仏教思想に影響を受けた中国や日本の絵画では、描かれる風景は、客観的なものではなく、すべて主観的なもの。自分の心に見えるものしか描かない。

琳派の作品には、そうした感覚が、より強く現れている。

酒井抱一の紅白梅図屏風。そこでは、不自然な形に折れ曲がった梅の木が、墨の線で描かれているが、それは、梅の枝を描いているというよりは、墨の筆使いの跡そのものを、表現したかったようにも見える。

酒井抱一の十二ヶ月花鳥図貼付屏風。十二枚の屏風絵に、梅や紅葉、鶯など、各月を代表する植物と鳥などが描かれている。同じ屏風の中に、木自体はざっくりと墨だけで抽象的に描きながら、そこに咲いた花は、おしべやめしべまで、細かい筆使いで丹念に描かれている。

その描き分けの感覚が素晴らしい。まさしく、「メリハリ」を効かせた表現も、琳派の大きな特徴の一つだ。

その他にも、尾形乾山の美しい色絵の各皿や、鈴木其一の素晴らしい雪を描いた雪中竹梅小禽図などもあり、江戸琳派の作品を中心にしたそれらの展示品から、琳派芸術の神髄を味わうことが出来る展覧会だった。

2012年11月10日土曜日

血みどろの浮世絵を描いた月岡芳年の繊細な心


若者が、文字通り溢れ帰る原宿の町。横道を一歩入った所に、この場所にまるで相応しくない、浮世絵太田記念美術館がある。

浮世絵ファンにとって馴染みのこの美術館で、俗に最後の浮世絵師といわれる、月岡芳年の没後120年を記念する、大回顧展が開催されていた。

月岡芳年は、幕末間近の江戸に生まれ、近年注目を浴びている歌川国芳に13才で弟子入りし、その後、幕末から明治初期にかけて活躍した。

展示は、年代別に展示され、芳年の画風の変化を辿ることが出来る。

芳年は、わずか15才で独立した絵師としてデビューした早熟の天才絵師だったが、その頃の作品は、はっきりいって師匠の国芳の影響をもろに受けている。

幕末の直前にその国芳が亡くなり、芳年は時代の大きなうねりの中で、独自の画風を身につけていく。それが、芳年の代名詞となる、真っ赤な鮮血が画面を覆う、グロテスクな浮世絵だった。

「英名二十八衆句 直助権兵衛」。権兵衛が憎き仇を殺した上に、素手で相手の顔の皮を剥いでいるの図。凄惨なその絵を見ていると、次第にこちらの気分も悪くなってくるようだ。

描いている芳年の方も、あまりいい気持ちはしなかったろう。しかし、このいわば”血のシリーズ”はヒットし、芳年は、次々に、血のシリーズを描き続けていった。

時代が明治に変わり、浮世絵師を取り巻く背景も変わっていた。そうしたいろいろな要素が重なって、芳年は、次第にその精神を蝕まれていくとになる。

明治の時代になると、芳年の絵のテーマは、上野の山の戦い、西南戦争など、世相を反映したものになっていった。ある意味では、文字通りの”浮世絵”だった。

江戸時代は、徳川幕府の厳しい既成の中で、浮世絵師はそうした政治的なテーマを真正面から描くことは出来なかったが、時代が変わったということなのだろう。

芳年は、そんな中でも売れっ子の浮世絵師として活躍していたが、精神の病が悪化して、明治25年に54才の若さで亡くなった。晩年の作品になるにつれて、次第に、その描く線が、細く繊細になっていた。

月岡芳年という人物は、その描くショッキングな作品とは裏腹に、内面は、繊細な心の持ち主だったのかもしれない。

2012年11月4日日曜日

現代芸術作品との夢のような対話の時間〜世田谷美術館収蔵作品展より


自宅から、歩いて30分ほどのところにある、世田谷美術館。自分にとっては、まさに、最も身近な美術館だ。

その世田谷美術館が、1年に及ぶ改修期間を経て、最近、再開され、『対話する時間』と題し、美術館コレクションの中から、1970年代以降の作品を中心に、およそ130作品が展示された。

作品は、自然との対話、日常/非日常との対話、旅での出会い、ものとの対話、歴史との対話、物語、神秘、冥界とパラダイス、とそれぞれ名付けられたコーナーに別れ、展示されていた。

それぞれのコーナーの最初には、当美術館の重要なコレクションの1つである、駒井哲郎による、鳥に関する版画が置かれていた。駒井の描いた鳥が、来場者と現代アート作品の対話を導く、という構成になっていた。

アンディ・ゴールズワージーの葉っぱを使った、奇妙な作品。一部、葉脈を露出させ、それが、不思議な世界を作り出している。かつて、この美術館で開催された、衝撃的なゴールズワージーの展覧会を思い出した。

荒木経惟の「歌曲」。美しい花を接写した6枚の写真。荒木にとっては、女性も花も、同じ被写体としてしか、見えていなかったようだ。

リチャード・ロングは、自分が旅で訪れた地の泥を使って、まさに旅の思い出として、作品を作り上げる。

ロジャー・アックリングも、アイルランドを訪れた際に、何気なく拾った小さな木片から、文字通り、「アイルランド」という作品を仕上げている。

エル・アナツイの「あてどなき宿命の旅路」。木片を繋ぎあわせ、旅路を歩いているかのように、並べた作品。以前、別な美術館で開催されたアツナイの展覧会で展示されていた作品。私にとって、この作品と再び出会うことは、ある意味で、宿命だったのかもしれない。

コーナー展示として、北大路魯山人の器や屏風絵などが展示されていた。大きな陶器で、外側には、紅葉した紅葉が秋を表し、内側には、桜が描かれている。一癖も二癖もあるモダンアート作品の中で、和を感じさせるその美意識は、異彩を放っていた。

アンゼルム・キーファーの「東から北へ向かう波」。ドイツ人のキーファーが、ベルリンの壁崩壊以前に作成した作品。布で作られた波ようなの、かすかな盛り上がりを表した写真を、灰色のキャンバスの絵画に貼付けたその作品は、この展覧会の作品の中でも、最も強い印象を私の心に中に残した。

子供の頃から、ジュール・ベルヌの作品のファンだったという横尾忠則が、彼に捧げたオマージュのような「ジュール・ベルヌの海」。海という名前とは裏腹に、画面は真っ赤な色で彩られているのが、横尾の作品らしい。

ジュヌヴィエーヴ・カデューの「天一体」。やや曇りがかった空の写真と、人の肌の拡大写真を1つのキャンバスに並べた作品。まさしく、マクロコスモスとミクロコスモスの対比。この世の世界の神秘を見事に表現している。

そして、会場の最後には、それにふさわしい、素晴らしい作品が来場者を待っていた。

メアリー・カズンズ=ウォーカーの「ワスレナグサ/デイジーの原っぱ」。刺繍で立体的に作られた男と女が、原っぱに横たわっている。その原っぱには、男の方にはワスレナグサが、女の方にはデイジーが咲き誇っている。

二人は、別々の箱の上にいるのだが、まるで、死体の周りから植物が生えてきているようにも見える。『古事記』に登場する、トヨウケヒメの死体から五穀が生まれた、というエピソードを思い出した。

そうして、私と現代アート作品との、夢のような、それでいて、つかの間の対話の時間は、終わりを迎えた。

2012年11月3日土曜日

夏・殷王朝から宋の時代までの中国王朝の至宝


今年の始めに行われた、故宮博物院展に続いて、日中国交正常化40周年を記念して、『中国王朝の至宝』展が行われた。

古代の夏・殷王朝から、宋の時代までの歴代の王朝の至宝、およそ170点を展示する、大規模なものだった。今回は、地方の博物館の収蔵作品で構成されていた。

これまで、中国といえば、故宮博物院の作品が来日する機会が多かったが、あまり目にする機会のない、地方の博物館の収蔵品には、新鮮な印象を受けた。

三国志で有名な蜀の国。そこには、中原で夏・殷王朝が栄えていた同じ時代に、全く別の文化を持った文明があった。

眼が極端に飛び出た、一度目にしたら、眼に焼き付いてしまう、インパクトの強い仮面。また、目尻の尖った金のマスク。

これまでの、中国の古代=夏・殷王朝の青銅器というイメージを覆す、印象に深い展示品だった。

そして、楚の時代からは、鹿の角を使った、墓を守るために設置されたという、不思議な動物の彫刻。

鹿の角には、特別な力が宿っていると考えられていたという。鹿の角は、再び、生えてくることから、再生という意味もあったのかもしれない。古代の日本でも、鹿は神の使いでもある、特別な動物だった。

秦の時代からは、始皇帝陵の兵馬俑の一体が展示されていた。大きさはほぼ等身大。膝をついて、顔を真っすぐ正面に向けている。その表情が、実に凛々しい。わずか一体ながら、その存在感は、周囲の出品物を圧倒していた。

唐の時代からは、陶器の女性俑。ふくよかな顔、丸みを帯びた体が、ユーモラスに表現されている。繁栄を極めた唐の時代を象徴するような、作品。

北朝の契丹族の遼からは、金や銀をふんだんに使った工芸品の数々。その中には、仏教に関するものも多い。この時代からは、明らかに仏教関係の展示品が多くなった。

折しも、尖閣諸島の問題で、日中関係が微妙な時期ということもあり、休日でありながら、それほど混雑がなかった。個人的には、ゆっくりと作品を味わうことが出来てよかったが、少々複雑な気持ちになった。

伝統と革新の融合〜『特別展 没後70年 竹内栖鳳ー京都画壇の画家たち』


これまでは、竹内栖鳳という画家について、それほど深く知る機会はなかった。

日本画家の絵画展で、時折、何点か展示されている栖鳳の絵画を見る機会はあったが、”美しい絵を描く、伝統的な京都の日本画家”という印象しかなかった。

しかし、山種美術館で開催された、『特別展 没後70年 竹内栖鳳ー京都画壇の画家たち』によって、じっくりとその絵画に触れて、栖鳳の作品の中で、伝統的な日本画家の技法と、西洋の影響を受けた革新性が、見事に融合していることに、深い感動を覚えた。

会場を入ったすぐのところに、「斑猫」が展示されていた。上の写真の右側の絵だが、自分の体をなめるために体をよじらせた愛くるしい猫を、毛の一本一本まで描きながら、巧みに表現している。

栖鳳は、この猫を沼津の八百屋でみかけ、一目で気に入り、自らの絵と引き換えに引き取り、自宅において、ずっとその動きを観察して、この作品を仕上げたという。

その丹念な表現は、ウィーンのアルベルティーナにある、デューラーのウサギの絵を思い出させる。

金の屏風に黒い墨だけで描かれた「虎・獅子図」。栖鳳がヨーロッパを訪れ、そこでライオンの絵を多く見たことから影響を受け、帰国後すぐに描かれた作品。

近寄ってよく見ると、虎の毛の表現方法は、まるで殴り書きで、モダンアートの画家の描き方のようだ。それを、少し離れて見ると、紛れもない虎の姿が現れる。

この絵を見たとたんに、私の栖鳳に対するイメージがすっかり変わってしまった。そして、とんでもない画家に出会ってしまったことに、気づかされた。

「水墨山水」。文字通り、水墨画で描かれた山水画。水郷の風景、水や木々を描いたように見える作品だが、絵の中央に、水墨のかたまりが、どっしりとある。それは、木あるいは何かを描いた、というよりは、墨そのものを、描きたかったようにしか思えない。

これほど印象的な水墨画には、そうそう出会えるものではない。ターナーの作品に影響を受けたようにも見える。

会場には、竹内栖鳳が多くを吸収した、応挙などの江戸時代の京都画壇の画家や、上村松園などの栖鳳の弟子などの作品も展示されていた。

長沢蘆雪の「唐子遊び図」。芦雪というと、愛くるしい仔犬や、ユーモラスな竜虎の絵のイメージが強いが、この絵画は、応挙の一番弟子だった、というその実力が遺憾なく発揮されている作品。その技術力の高さと、不思議なユーモアが、見事に混在している。

栖鳳の弟子への言葉が、会場に掲げられていた。”生活の雑事に振り回されて、画家としての画心を忘れては行けません。どんな場面に出会っても、画家は、その画心で、その風景、対象を捉えなければならないのです。”という趣旨の発言が、紹介されていた。

栖鳳のすべての絵画には、紛れもない、その画心が表現されている。