2012年4月8日日曜日

桜の咲く季節 セザンヌと会す


桜が満開の頃、新国立美術館で開催された『セザンヌーパリとプロバンス』展を見た。

セザンヌの絵と言うと、サント・ヴィクトワール山に代表される風景画、リンゴに代表される静物画、人間の個性が感じられない物のような肖像画・・・といったものを自然と思い浮かべてしまう。

それは、まるで、日本人が桜を見る時に、それを単なる花として見れないような、そんな固定概念のようなものが、私たちを邪魔してしまう。

しかし、この展覧会では、そうした固定概念を、いい意味で壊してくれる作品が多くあり、春の一日をとても楽しめることができた。

セザンヌが、20才の頃に自宅の装飾用に描いたという、それぞれ四季を表す大きな4つの作品。パステル調の色合いで、四季を代表する女性像がそれぞれ描かれている。後年のセザンヌの人物画像とは全く異なった趣の作品だ。

セザンヌが、第1回印象派展に出品した『首吊りの家ーオーヴェール=シュル=オワーズ』。ピサロらの印象派の人々との交流を始めた頃の作品で、印象派の影響を受けているのがわかる。セザンヌのタッチは、この後、もっと荒くなっていくが、この作品ではそれに比べると繊細なタッチで、何気ない風景を、趣あるものにしている。

『サンタンリ村から見たマルセイユ湾』。マルセイユ湾のやや濃いめの青と、空の淡い青が、キャン版のほぼ全体を覆っている。その2つの青の色が美しい。セザンヌにとって、空とか海とかいう違いは、あまり関係なかったのかもしれない。セザンヌは、単にこの2つの色合いを描きたかったのだろう。

『水の反映』。湖の木々の緑が反映している。実際の木々の緑と、湖に映っているその反映が、ほとんど区別がつかないほど、荒いタッチで描かれている。

『フォンテーヌブローの岩』。岩肌が、やや紫色がかった色で彩色されている。それが、岩を、なにか生命観を持った不思議な存在にしている。

『トロネの道とサント=ヴィクトワール山』。絵の前に立っていると、サント=ヴィクトワール山が、こちらに迫ってくるように感じられる。セザンヌの故郷にそびえるこの山は、彼に取って特別な存在だった。その表現力には、ただただ圧倒させられる。

セザンヌの肖像画は、表情が細かく描かれていないので、一見すると、個性が感じられないように見える。しかし、セザンヌは、表情でなく、別なもので、その人物像を表そうとしている。

『座る農夫』。この絵を見ると、まず、その手の異様な大きさにまず目がいく。その反面、顔が不釣り合いなほど小さい。この年老いた農夫は、その一生のほとんどを、畑仕事に費やしてきたのだろう。セザンヌは、そのことを、手と顔の表現で表したかったのかもしれない。

『りんごとオレンジ』。実に不思議な静物画だ。一見すると、りんごやオレンジは、空中にフワフワと漂っているように見える。よくよく見ると、確かにテーブルの上に置かれているのだが、テーブルの上に、白と鮮やかな色のシーツが広げられているので、そのテーブルがよくわからずに、まるで浮いているような印象を与える。

『牛乳入れと果物のある静物』。これも不思議な静物画だ。白い皿がテーブルの上にあるのだが、その向きが明らかに不自然で、この皿だけが別な方向から描かれているようだ。こうした表現が、後のピカソなどに影響を与えたのだろう。

晩年の3つの作品。『5人の水浴の男たち』『サント=ヴィクトワール山』『庭師ヴァリエ』。セザンヌは、晩年を故郷のプロヴァンスで、絵を描いて過ごした。この3つの作品を見ると、対象はいずれも異なるが、同じものを描いているように見える。セザンヌが描こうとしていたもの。それは、個々の対象を超えている存在、とでもいうべきものだろうか。

巨匠の名を欲しいままにし、後世の多くの画家から”礼賛”されてきたセザンヌ。この展覧会では、どうしてそれほどまでにセザンヌが讃えられるのか。その一端をかいま見ることができた。

『セザンヌーパリとプロバンス』展の特設ページ

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