2013年4月6日土曜日

現代茶道の原点〜遠州・不昧の美意識(根津美術館)


 江戸時代を代表する、二人の茶人、小堀遠州と松平不昧。

小堀遠州。戦国時代の末期に、今の滋賀県の地に、農民と武士の間のような小さな家に生まれ、当時の有力大名であった浅井氏に使え、その滅亡後に後の豊臣秀吉に使えた。

そこで、千利休、古田織部、といった茶人と知り合い、徳川の時代になった後は、駿府城普請奉行などを務めながら、茶人として、遠州流の祖となった。徳川家光の茶道指南役も務め、二条城の造営にも大きな役割を果たした。

千利休は、いわゆる、わびさび、という、きらびかさや華やかさとはかけはなれた、素朴で簡素なものを好んだ。織部は、いびつな形のものを好んだ。

遠州の茶は、きれいさび、と言われている。戦国時代が終わり、平和な時代の訪れとともに、新しい時代には、新しい茶の湯が求められた。


根津美術館で開催された、コレクション展 遠州・不昧の美意識では、その二人に縁の茶道具が展示された。

茶入、花入などの道具といっしょに、それを収めている器や、消息という文書が展示されている。

小堀遠州などが書いた消息には、その茶入れの謂れなどが記されている。

茶道具そのものだけでなく、そうした周辺の品々の存在によって、茶道具は単なる、もの、から、こと、に変わっている。

重要文化財の、丸壷茶入 銘 相坂。高さ6センチ、横幅も6センチしかない、小さな茶入だが、表面の釉薬の模様が複雑で、ずっと見ていると、いろいろな景色が表れては消え、見る物を飽きさせない。

4つの、趣の違った茶入れ袋がついており、それぞれの茶入れ袋から取り出した時の趣も違っていることが想像でき、それもまた楽しい。


一方の松平不昧は、遠州よりおよそ200年の後に、松江藩の藩主の次男として生まれ、その後、家督を継いだ。松江藩は財政難に苦しんでおり、不昧は緊縮財政と産業育成策によって藩を立て直し、むしろ潤った財政をいいことに、高価な茶道具を買い漁った。

財政が豊かになった松江藩を警戒した、幕府を意識しての行動だったとも言われている。

不昧は、小堀遠州の鑑識眼を高く評価し、遠州の好んだ茶入れを「中興名物」としてまとめた。会場には、その「中興名物」を含む、『古今名物類従』全18巻が展示されていた。

不昧は、千利休のわび茶も好んだが、より色鮮やかで美しい茶器を好んだ。

堅手茶碗 銘 長崎。「中興名物」にも記された高麗茶碗。やや形が歪んでいる。一部、白い釉薬がかからなかった部分があり、それがこの器を特別な器にしている。

この高麗茶碗は、はじめ遠州が保持し、その後、不昧が入手した。この展覧会を象徴するような作品だ。

現代の茶道は、村田珠光や千利休が作り上げた物とは、まるで違った華やかなものとなっている。豪華な茶室で、色鮮やかな着物を着て、高価な茶道具で、お茶をたしなむ。

良くも悪くも、そうした現代の茶道の原点は、小堀遠州と松平不昧という、この二人にあるのだ、ということが、この展覧会をみてよくわかった。

2013年4月2日火曜日

第68回春の院展を見た印象から


日本橋の三越の春の風物詩、春の院展。

300点を超える日本画を、美術館より少しくだけた雰囲気で味わえる。

これだけあると、ゆっくり一点一点を味わうというよりは、ブラブラ廻りながら、途中、目に入った作品の前で立ち止まる、といった感じになる。

ここ何年か通っているが、やはり、同じ様な絵が並んでいるなあ、という印象は拭えない。

何気無い場所を描いた風景画。外国の観光地を描いた風景画。女性を描いた人物画。描かれている人物は、圧倒的に女性が多い。鹿、馬、犬、ネコなどを描いた動物画。草花を細かいタッチで描いたものなど。

どうしても、周囲とは違った絵、インパクトの強い絵に、目が行ってしまう。

高橋天山の木之花佐久夜毘売。雪が積もったように、真っ白に描かれた富士山をバックに、平安絵巻から抜け出たような、着物を着た女性が空に浮かんでいる。木之花佐久夜毘売という神話的な存在よりは、紫式部とか、清少納言のように見えてしまった。

岩永てるみのサン・ラザール駅。モネが描いたことでよく知られた対象を、日本画で描いている。天井だけにフォーカスして、写真のような、写実的な画風で表現している。モネの絵は、ぼかして描かれているのに、岩永の日本画が写実的なのが面白かった。

濱田君江のポンペイ。一人の女性が腰掛けて、こちらをじっと見つめている。ポンペイの滅亡に直面しているのか、遺跡の中にいるのか、よくわからないが、題名と描かれているものがすぐに結びつかず、それが印象に残った。

安井彩子の演奏まえに。文字通り、演奏を直前に控えた一人の若い女性が、サックスを手に座っている。演奏前の静かな緊張感を、自然な筆使いで描いている。現代の何気ない一風景を写した日本画だが、今に生きている日本画ともいえる。

チケットがなくても鑑賞できる、いわゆる場外には、今回、初入選した作品が並んでいた。

その中から、京都絵美のブーケ。若い女性が、ブーケを抱えている。そのブーケは勿論、絵の全体が、明るいパステル色で描かれている。春の雰囲気に相応しい一枚。

初入選の作品が、場外に置かれている、というのは、日本美術院の階級制を表しているようにも見えた。

2013年3月31日日曜日

肖像写真の裏側〜エドワード・スタイケン写真展(世田谷美術館)


世田谷美術館で、スタイケンの展覧会、エドワード・スタイケン写真展 モダン・エイジの光と影1923-1937、が開催された。

会場には、スタイケンが主にファッション、ポートレイト写真を撮影していた、1920〜1930年代の作品、およそ200点ほどが展示されていた。

モデルには、錚々たる人物の名前が並ぶ。

政治家のウィンストン・チャーチル、映画監督のセシル・デミル、グレタ・ガルボ、マレーネ・ディートリッヒ、フレッド・アステア、ダグラス・フェアバンクス、作曲家のガーシュイン、ピアニストのホロビッツ、指揮者のストコフスキー、などなど。

スタイケンは、モデルがどんな職業かどうかは、あまり興味がなかったという。ただ、どの人物も、皆、興味深い人たちだった、と語っている。

スタイケンにとっては、モデルは、あくまでも自分の写真の中の素材だったのだろう。だから、その人物が、どんなことを職業にしているかは、関係がなかった。ただ、その人物が魅力的であれば、それを引き出して、素晴らしい写真を撮ることができた。

展示されていた写真は、どれもが、絵に書いたような肖像写真だった。政治家は政治家らしく威厳を保ち、女優は女優らしくキレイなドレスに身を包み、音楽家は音楽家らしくピアノの前でポーズを取っている。

というよりも、スタイケンこそが、今日から見れば、紋切り型とも言える、そうした肖像写真を生み出した。

中でも、モデルで、その後写真家にもなったマリオン・モアハウスは、スタイケンのお気に入りのモデルだった、という。

スタイケンは、モアハウスが、どんな洋服でも見事に着こなしてしまう様子に、いつも感心していたという。会場には、美しいドレス、東洋風のガウン、乗馬服などの様々なスタイルのモアハウスの写真が並んでいた。

スタイケンは、1879年にルクセンブルグに生まれ、家族とともにアメリカに移住し、画家を目指していたが、写真家のスティーグリッツに誘われ、写真の世界に飛び込んだ。

始めは、スティーグリッツの提唱するピクトリアリスムという芸術的な写真を撮っていたが、その後、商業写真に転身した。

スタイケンは、当時、芸術はいつの時代でも、商業的な芸術が最も優れていた、と語り、写真家仲間からは、厳しく批判されていたという。

第2次世界大戦が始まると、予備軍に志願し、実際に戦場にも赴き、ドキュメンタリー映画を撮影し、アカデミー賞を受賞した。

戦後は、ニューヨーク近代美術館の写真部門のディレクターに就任し、その後、多くの写真展を企画した。

芸術的な写真、スターのポートレート、戦場の写真。あまりにもジャンルの違う素材を撮り続けたスタイケン。しかし、彼は、つねに自分の興味のある対象を撮り続けただけだったのだろう。

会場の入り口には、撮影スタジオにおける、セルフ・ポートレートが1枚だけ展示されていた。

セットの前で腰を下ろし、モデルかスタッフに笑顔で話しかけているスタイケンが写っている。その爽やかな笑顔は、彼の性格を良く表しているようにも、そのような人物に写るように自ら演出しているようにも、どちらにも見えた。

スタイケンという、写真家という枠では、捉えきれないこの人物の一端に触れただけのような、煮え切れない印象を持って、会場を後にした。

2013年3月24日日曜日

白と黒のコントラストに表されたもの〜マリオ・ジャコメッリ写真展(東京都写真美術館)


会場を入るとすぐに、ホスピスにおける人々を写した写真が展示されていた。

死を待っている人々、目を背けたくなるような写真もある。しかし、紛れもなく、そこには生がある。むしろ、生は、それらの写真の中で、余計、際立っている。白と黒のコントラストが、さらに、そこに写された生を、私たちの心の中に、否応もなく、放り込んでくる。

続いて、ルルドの泉をもとめて押し寄せる人々を写した写真が並べられていた。不死の病気を治すという、奇跡を起こす泉の水に、最後の望みを託した人々。

多くの車イスの人々が、画面一杯に写されている。白い画面を、斜めに横切るような巡礼者の列が、黒い影のように写された写真。

そこにあるのは、無数の生への執念。それが、この世の中のすべての出来事の裏に存在する。

会場のあちこちに、ジャコメッリの言葉がプリントされている。

”表現したいものがあれば、撮影することは、大して難しいことではない。”

イタリアの各地を写した写真の数々。何の変哲もない、大地の写真。時々、何を写したのか、よくわからないような写真もある。

”大地を、人間の肉のように感じ、撮影した。”

一見すると、どこにでもありそうな風景が並んでいる。しかし、じっとみていると、その強烈なコントラストのせいか、まるで別な世界の風景のようにも見えてくる。

印刷業という仕事を続けながら、平行してアマチュア写真家として、2000年に亡くなるまで生涯にわたって写真を撮り続けたというジャコメッリ。

その写真からは、紛れもなく、ジャコメッリという人間の視点が感じられる。

華やかなファッション写真の裏側〜アーウィン・ブルーメンフェルド 美の秘密(東京都写真美術館)


この展覧会に行く前は、アーウィン・ブルーメンフェルドによる様々なファッション写真を楽しむ、ということだけを意図していた。

確かに、前半は、文字通り、その通りの内容だったが、後半部分を見て、その期待は、いい意味で、大きく裏切られた。

ブルーメンフェルドは、1897年にドイツ・ベルリンのユダヤ人の家庭に生まれた。ナチスの台頭により、パリへ逃れた。

若い時は、前衛的な芸術運動ダダにも参加し、マン・レイやモホリ=ナジらと同じ展覧会に写真を出品していた。

会場の後半には、ファッション写真とは全く趣の違った、マン・レイのような、商業的でなく、芸術的な写真が数多く展示されていた。

ヒトラーの顔をわざと崩した写真、地上に移るエッフェル塔の影を写した写真、裸体の女性の上半身だけを写した写真などなど。

ブルーメンフェルドは、パリで偶然にイギリスのファッション写真家、セシル・ビートンに声をかけられ、それが縁で、アメリカに渡り、ヴォーグを始めとしたファッション雑誌で活躍することになった。

そうした背景を知って、あらためてブルーメンフェルドのファッション写真を見てみると、実はその中に、単なるファション写真ではない、様々な要素を見つけることが出来る。

美しい映画女優、モデルたちのポーズは、そのフォルムが計算され尽くしている。複数の女性達に、違う色の原色の洋服を着せ、線を描くように並ばせたり、口からタバコ煙を吐かせてみたり、頬杖をついている下から別な腕を出させて、あたかも4本の手で頬杖をしているようにみせたり。

そこに展示されていたのは、単なる、キレイで美しいファッション写真ではなく、デザインセンスに溢れた、まさしく芸術写真だった。

しかし、ブルーメンフェルド自身は、最後までファッション業界における自分の存在を”よそ者”と捉えていたという。

晩年に、自らの生涯の100枚の写真を選んで写真集を出版した。会場にはその100枚が展示されていた。その中には、ファッション写真は1枚も含まれていない。

この日から、アーウィン・ブルーメンフェルドという写真家の名前は、私の心の中に、深く刻まれることとなった。

2013年3月20日水曜日

海を越えた名品たち〜時代の美 中国・朝鮮編(五島美術館)


五島美術館のリニューアル記念の特別展の最後となる、時代の美 第4部 中国・朝鮮編、を訪れた。

昨年の10月から続いたシリーズの最後。感慨深げな気分で、会場に向かう。

敦煌において発見された古写経。随時代の大方等大集経と、唐時代の金剛般若波羅蜜経。書体に時代の違いが表れている。前者は、緊張感が感じられるが、後者は、大きくゆったりとした印象を受ける。

敦煌から発掘されたこうした古写経は、世界中に5万点ほどあるという。井上靖の小説や、敦煌のテレビ映像が思い浮かぶ。1,300〜1,400年前に書かれた文字を眺めていると、否応なく、歴史のロマンを感じる。

南宋、元、明時代の高僧による墨跡の数々。それぞれの筆跡は、個性的で、1つとして、似通ったものはない。

中でも、王陽明の2つの書が印象に残る。1つは、明を去る日本からの留学生に宛てて書いた書。もう一つは、ある学校の修復を記念して送った書。

王陽明の書は、あまり筆を曲げずに、直線を多く使い、シンプルでモダンな印象を与える。

南宋時代の水墨画。もともとは、足利将軍家のコレクションである東山御物であった、徽宗皇帝のものと伝わる鴨図。首を後に曲げて羽繕いをする鴨を、細かい筆使いで描いている。

牧谿が描いたと伝わる、叭々鳥図。こちらも、もとは東山御物の1つ。空を飛んでいる鳥が、降り立とうとする水草を探しているところを描いている。

足利将軍を始め、当時の有力者たちは、競って明から書や絵画を購入した。

展示場の一角には、中国の代表的な陶芸品が並んでいた。唐三彩の三彩万年壷、緑と青の色合いが美しい。白と黒のコントラストが印象的な白釉黒花牡丹文梅瓶。左右対称のシンメトリーが美しい青磁鳳凰耳瓶。景徳鎮の青花などなど。

実際に、木の葉を茶碗の中に入れて焼いた、黒釉木の葉文椀。葉の葉脈がくっきりと茶碗の底に表れている。

第2室には、朝鮮の美術品が展示されていた。

日本は、法華経の国だが、韓国は華厳経の国だ。高麗時代の高麗版 貞元新訳華厳経疏。その文字の一つ一つを、実に丁寧に書いていることがよくわかる。この経典への思いが、伝わってくる。

朝鮮といえば、やはり陶芸。青磁、白磁などの名品が並ぶ。

松江藩主、松平不味が所有していた井戸茶碗、美濃という銘を持っている。一見すると、何ということのない井戸茶碗のように見えるが、よくよくみると、上薬の微妙なピンクを帯びた色合いが、複雑な文様のように、器を取り巻いている。

会場を後にしながら、ひょんなことから、海を越えて、この国に腰を落ち着けた、美しい品々の不思議な縁について、考えざるを得なかった。

茶道具の行方〜曜変・油滴天目−茶道具名品展(静嘉堂文庫)


静嘉堂文庫創設120周年、美術館開館20周年を記念する特別展のシリーズ。最後は、曜変・油滴天目−茶道具名品展、と題し、岩崎弥之助・小弥太の親子2代にわたって収集された、茶道具の名品の数々が展示された。

茶の湯となると、さすがにファンの裾野が一気に広がるようで、いつもは休日でも閑散としている会場が、多くの人で賑わっていた。

そうした人々のお目当ての1つは、やはり、曜変天目(稲葉天目)だろう。

12〜13世紀の南宋時代、今の福建省の建窯で焼かれた。徳川家の持ち物だったが、3代将軍家光から、春日局に送られ、その後は生家の稲葉家に長く伝わっていた。

世界に3つしか残っていない曜変天目は、そのすべてが日本にあるが、この稲葉天目が、最も鮮やかな曜変であるといわれる。目の前にすると、その鮮やかには、思わず目を奪われる。ずっと見ていると、その青い世界の中に、引き込まれていくような錯覚さえ覚えてしまう。

鎌倉時代から南北朝、室町時代にかけて、当時の支配階級であった有力な武士階級の人々が、こうした茶道具を、中国から多く買い入れた。

会場には、同じ時代に焼かれた、油滴天目、灰被天目、玳皮天目なども展示されていた。

やがて、戦国時代から安土桃山時代にかけて、堺の商人であった武野紹鴎が侘び茶を始め、同じく堺の商人、千利休がそれを大成する。

その武野紹鴎が所持したという猿曵棚。中国から輸入されたいわゆる華麗な唐物とは違い、木の素材をそのまま活かしたシンプルな作りは、侘び茶というものの性格をよく表している。

この猿曵棚は、その後、古田織部を通じて、伊達家に伝わり、明治維新後、その他の大量の茶道具一式とともに、岩崎家に売却された。

武野紹鴎が所持していたことから、その名がついた茶入、紹鴎茄子。その後豊臣秀頼が所持していたが、大阪城の戦火の中で粉々に砕けてしまった。家康がその修復を藤重藤元・藤厳親子に命じ、漆で繋ぎあわせることで、見事に再現し、今日でもその美しい姿を見ることが出来る。

千利休の茶杓、銘は「両樋」。茶杓の先の折れ曲がりがやや長い、いわゆる利休好みの茶杓。

利休に続く、古田織部、小堀遠州らも、自らの好みを明確に主張し、新たな茶の湯の模索を続けていった。

江戸時代になると、大名たちが、多くの茶道具を買い求め、熱心に茶の湯を学び、茶会を行うようになった。

中でも、出雲藩の松平治郷(不味)は、茶道具の収集家として知られる。その不味公が作らせた、金箔を大胆に使用した絢爛豪華な、片輪車螺鈿蒔絵大棗。そこには、利休の侘び茶の精神はない。これこそが、不味好みということだろう。

その後、明治時代になると、多くの大名家は没落し、岩崎家を代表する明治の財閥グループにその茶道具を売り渡した。

この静嘉堂文庫の記念展では、こうした茶道の流れを、縁のある作品を通じて、概観することが出来た。