2013年4月6日土曜日

現代茶道の原点〜遠州・不昧の美意識(根津美術館)


 江戸時代を代表する、二人の茶人、小堀遠州と松平不昧。

小堀遠州。戦国時代の末期に、今の滋賀県の地に、農民と武士の間のような小さな家に生まれ、当時の有力大名であった浅井氏に使え、その滅亡後に後の豊臣秀吉に使えた。

そこで、千利休、古田織部、といった茶人と知り合い、徳川の時代になった後は、駿府城普請奉行などを務めながら、茶人として、遠州流の祖となった。徳川家光の茶道指南役も務め、二条城の造営にも大きな役割を果たした。

千利休は、いわゆる、わびさび、という、きらびかさや華やかさとはかけはなれた、素朴で簡素なものを好んだ。織部は、いびつな形のものを好んだ。

遠州の茶は、きれいさび、と言われている。戦国時代が終わり、平和な時代の訪れとともに、新しい時代には、新しい茶の湯が求められた。


根津美術館で開催された、コレクション展 遠州・不昧の美意識では、その二人に縁の茶道具が展示された。

茶入、花入などの道具といっしょに、それを収めている器や、消息という文書が展示されている。

小堀遠州などが書いた消息には、その茶入れの謂れなどが記されている。

茶道具そのものだけでなく、そうした周辺の品々の存在によって、茶道具は単なる、もの、から、こと、に変わっている。

重要文化財の、丸壷茶入 銘 相坂。高さ6センチ、横幅も6センチしかない、小さな茶入だが、表面の釉薬の模様が複雑で、ずっと見ていると、いろいろな景色が表れては消え、見る物を飽きさせない。

4つの、趣の違った茶入れ袋がついており、それぞれの茶入れ袋から取り出した時の趣も違っていることが想像でき、それもまた楽しい。


一方の松平不昧は、遠州よりおよそ200年の後に、松江藩の藩主の次男として生まれ、その後、家督を継いだ。松江藩は財政難に苦しんでおり、不昧は緊縮財政と産業育成策によって藩を立て直し、むしろ潤った財政をいいことに、高価な茶道具を買い漁った。

財政が豊かになった松江藩を警戒した、幕府を意識しての行動だったとも言われている。

不昧は、小堀遠州の鑑識眼を高く評価し、遠州の好んだ茶入れを「中興名物」としてまとめた。会場には、その「中興名物」を含む、『古今名物類従』全18巻が展示されていた。

不昧は、千利休のわび茶も好んだが、より色鮮やかで美しい茶器を好んだ。

堅手茶碗 銘 長崎。「中興名物」にも記された高麗茶碗。やや形が歪んでいる。一部、白い釉薬がかからなかった部分があり、それがこの器を特別な器にしている。

この高麗茶碗は、はじめ遠州が保持し、その後、不昧が入手した。この展覧会を象徴するような作品だ。

現代の茶道は、村田珠光や千利休が作り上げた物とは、まるで違った華やかなものとなっている。豪華な茶室で、色鮮やかな着物を着て、高価な茶道具で、お茶をたしなむ。

良くも悪くも、そうした現代の茶道の原点は、小堀遠州と松平不昧という、この二人にあるのだ、ということが、この展覧会をみてよくわかった。

2013年4月2日火曜日

第68回春の院展を見た印象から


日本橋の三越の春の風物詩、春の院展。

300点を超える日本画を、美術館より少しくだけた雰囲気で味わえる。

これだけあると、ゆっくり一点一点を味わうというよりは、ブラブラ廻りながら、途中、目に入った作品の前で立ち止まる、といった感じになる。

ここ何年か通っているが、やはり、同じ様な絵が並んでいるなあ、という印象は拭えない。

何気無い場所を描いた風景画。外国の観光地を描いた風景画。女性を描いた人物画。描かれている人物は、圧倒的に女性が多い。鹿、馬、犬、ネコなどを描いた動物画。草花を細かいタッチで描いたものなど。

どうしても、周囲とは違った絵、インパクトの強い絵に、目が行ってしまう。

高橋天山の木之花佐久夜毘売。雪が積もったように、真っ白に描かれた富士山をバックに、平安絵巻から抜け出たような、着物を着た女性が空に浮かんでいる。木之花佐久夜毘売という神話的な存在よりは、紫式部とか、清少納言のように見えてしまった。

岩永てるみのサン・ラザール駅。モネが描いたことでよく知られた対象を、日本画で描いている。天井だけにフォーカスして、写真のような、写実的な画風で表現している。モネの絵は、ぼかして描かれているのに、岩永の日本画が写実的なのが面白かった。

濱田君江のポンペイ。一人の女性が腰掛けて、こちらをじっと見つめている。ポンペイの滅亡に直面しているのか、遺跡の中にいるのか、よくわからないが、題名と描かれているものがすぐに結びつかず、それが印象に残った。

安井彩子の演奏まえに。文字通り、演奏を直前に控えた一人の若い女性が、サックスを手に座っている。演奏前の静かな緊張感を、自然な筆使いで描いている。現代の何気ない一風景を写した日本画だが、今に生きている日本画ともいえる。

チケットがなくても鑑賞できる、いわゆる場外には、今回、初入選した作品が並んでいた。

その中から、京都絵美のブーケ。若い女性が、ブーケを抱えている。そのブーケは勿論、絵の全体が、明るいパステル色で描かれている。春の雰囲気に相応しい一枚。

初入選の作品が、場外に置かれている、というのは、日本美術院の階級制を表しているようにも見えた。

2013年3月31日日曜日

肖像写真の裏側〜エドワード・スタイケン写真展(世田谷美術館)


世田谷美術館で、スタイケンの展覧会、エドワード・スタイケン写真展 モダン・エイジの光と影1923-1937、が開催された。

会場には、スタイケンが主にファッション、ポートレイト写真を撮影していた、1920〜1930年代の作品、およそ200点ほどが展示されていた。

モデルには、錚々たる人物の名前が並ぶ。

政治家のウィンストン・チャーチル、映画監督のセシル・デミル、グレタ・ガルボ、マレーネ・ディートリッヒ、フレッド・アステア、ダグラス・フェアバンクス、作曲家のガーシュイン、ピアニストのホロビッツ、指揮者のストコフスキー、などなど。

スタイケンは、モデルがどんな職業かどうかは、あまり興味がなかったという。ただ、どの人物も、皆、興味深い人たちだった、と語っている。

スタイケンにとっては、モデルは、あくまでも自分の写真の中の素材だったのだろう。だから、その人物が、どんなことを職業にしているかは、関係がなかった。ただ、その人物が魅力的であれば、それを引き出して、素晴らしい写真を撮ることができた。

展示されていた写真は、どれもが、絵に書いたような肖像写真だった。政治家は政治家らしく威厳を保ち、女優は女優らしくキレイなドレスに身を包み、音楽家は音楽家らしくピアノの前でポーズを取っている。

というよりも、スタイケンこそが、今日から見れば、紋切り型とも言える、そうした肖像写真を生み出した。

中でも、モデルで、その後写真家にもなったマリオン・モアハウスは、スタイケンのお気に入りのモデルだった、という。

スタイケンは、モアハウスが、どんな洋服でも見事に着こなしてしまう様子に、いつも感心していたという。会場には、美しいドレス、東洋風のガウン、乗馬服などの様々なスタイルのモアハウスの写真が並んでいた。

スタイケンは、1879年にルクセンブルグに生まれ、家族とともにアメリカに移住し、画家を目指していたが、写真家のスティーグリッツに誘われ、写真の世界に飛び込んだ。

始めは、スティーグリッツの提唱するピクトリアリスムという芸術的な写真を撮っていたが、その後、商業写真に転身した。

スタイケンは、当時、芸術はいつの時代でも、商業的な芸術が最も優れていた、と語り、写真家仲間からは、厳しく批判されていたという。

第2次世界大戦が始まると、予備軍に志願し、実際に戦場にも赴き、ドキュメンタリー映画を撮影し、アカデミー賞を受賞した。

戦後は、ニューヨーク近代美術館の写真部門のディレクターに就任し、その後、多くの写真展を企画した。

芸術的な写真、スターのポートレート、戦場の写真。あまりにもジャンルの違う素材を撮り続けたスタイケン。しかし、彼は、つねに自分の興味のある対象を撮り続けただけだったのだろう。

会場の入り口には、撮影スタジオにおける、セルフ・ポートレートが1枚だけ展示されていた。

セットの前で腰を下ろし、モデルかスタッフに笑顔で話しかけているスタイケンが写っている。その爽やかな笑顔は、彼の性格を良く表しているようにも、そのような人物に写るように自ら演出しているようにも、どちらにも見えた。

スタイケンという、写真家という枠では、捉えきれないこの人物の一端に触れただけのような、煮え切れない印象を持って、会場を後にした。

2013年3月24日日曜日

白と黒のコントラストに表されたもの〜マリオ・ジャコメッリ写真展(東京都写真美術館)


会場を入るとすぐに、ホスピスにおける人々を写した写真が展示されていた。

死を待っている人々、目を背けたくなるような写真もある。しかし、紛れもなく、そこには生がある。むしろ、生は、それらの写真の中で、余計、際立っている。白と黒のコントラストが、さらに、そこに写された生を、私たちの心の中に、否応もなく、放り込んでくる。

続いて、ルルドの泉をもとめて押し寄せる人々を写した写真が並べられていた。不死の病気を治すという、奇跡を起こす泉の水に、最後の望みを託した人々。

多くの車イスの人々が、画面一杯に写されている。白い画面を、斜めに横切るような巡礼者の列が、黒い影のように写された写真。

そこにあるのは、無数の生への執念。それが、この世の中のすべての出来事の裏に存在する。

会場のあちこちに、ジャコメッリの言葉がプリントされている。

”表現したいものがあれば、撮影することは、大して難しいことではない。”

イタリアの各地を写した写真の数々。何の変哲もない、大地の写真。時々、何を写したのか、よくわからないような写真もある。

”大地を、人間の肉のように感じ、撮影した。”

一見すると、どこにでもありそうな風景が並んでいる。しかし、じっとみていると、その強烈なコントラストのせいか、まるで別な世界の風景のようにも見えてくる。

印刷業という仕事を続けながら、平行してアマチュア写真家として、2000年に亡くなるまで生涯にわたって写真を撮り続けたというジャコメッリ。

その写真からは、紛れもなく、ジャコメッリという人間の視点が感じられる。

華やかなファッション写真の裏側〜アーウィン・ブルーメンフェルド 美の秘密(東京都写真美術館)


この展覧会に行く前は、アーウィン・ブルーメンフェルドによる様々なファッション写真を楽しむ、ということだけを意図していた。

確かに、前半は、文字通り、その通りの内容だったが、後半部分を見て、その期待は、いい意味で、大きく裏切られた。

ブルーメンフェルドは、1897年にドイツ・ベルリンのユダヤ人の家庭に生まれた。ナチスの台頭により、パリへ逃れた。

若い時は、前衛的な芸術運動ダダにも参加し、マン・レイやモホリ=ナジらと同じ展覧会に写真を出品していた。

会場の後半には、ファッション写真とは全く趣の違った、マン・レイのような、商業的でなく、芸術的な写真が数多く展示されていた。

ヒトラーの顔をわざと崩した写真、地上に移るエッフェル塔の影を写した写真、裸体の女性の上半身だけを写した写真などなど。

ブルーメンフェルドは、パリで偶然にイギリスのファッション写真家、セシル・ビートンに声をかけられ、それが縁で、アメリカに渡り、ヴォーグを始めとしたファッション雑誌で活躍することになった。

そうした背景を知って、あらためてブルーメンフェルドのファッション写真を見てみると、実はその中に、単なるファション写真ではない、様々な要素を見つけることが出来る。

美しい映画女優、モデルたちのポーズは、そのフォルムが計算され尽くしている。複数の女性達に、違う色の原色の洋服を着せ、線を描くように並ばせたり、口からタバコ煙を吐かせてみたり、頬杖をついている下から別な腕を出させて、あたかも4本の手で頬杖をしているようにみせたり。

そこに展示されていたのは、単なる、キレイで美しいファッション写真ではなく、デザインセンスに溢れた、まさしく芸術写真だった。

しかし、ブルーメンフェルド自身は、最後までファッション業界における自分の存在を”よそ者”と捉えていたという。

晩年に、自らの生涯の100枚の写真を選んで写真集を出版した。会場にはその100枚が展示されていた。その中には、ファッション写真は1枚も含まれていない。

この日から、アーウィン・ブルーメンフェルドという写真家の名前は、私の心の中に、深く刻まれることとなった。

2013年3月20日水曜日

海を越えた名品たち〜時代の美 中国・朝鮮編(五島美術館)


五島美術館のリニューアル記念の特別展の最後となる、時代の美 第4部 中国・朝鮮編、を訪れた。

昨年の10月から続いたシリーズの最後。感慨深げな気分で、会場に向かう。

敦煌において発見された古写経。随時代の大方等大集経と、唐時代の金剛般若波羅蜜経。書体に時代の違いが表れている。前者は、緊張感が感じられるが、後者は、大きくゆったりとした印象を受ける。

敦煌から発掘されたこうした古写経は、世界中に5万点ほどあるという。井上靖の小説や、敦煌のテレビ映像が思い浮かぶ。1,300〜1,400年前に書かれた文字を眺めていると、否応なく、歴史のロマンを感じる。

南宋、元、明時代の高僧による墨跡の数々。それぞれの筆跡は、個性的で、1つとして、似通ったものはない。

中でも、王陽明の2つの書が印象に残る。1つは、明を去る日本からの留学生に宛てて書いた書。もう一つは、ある学校の修復を記念して送った書。

王陽明の書は、あまり筆を曲げずに、直線を多く使い、シンプルでモダンな印象を与える。

南宋時代の水墨画。もともとは、足利将軍家のコレクションである東山御物であった、徽宗皇帝のものと伝わる鴨図。首を後に曲げて羽繕いをする鴨を、細かい筆使いで描いている。

牧谿が描いたと伝わる、叭々鳥図。こちらも、もとは東山御物の1つ。空を飛んでいる鳥が、降り立とうとする水草を探しているところを描いている。

足利将軍を始め、当時の有力者たちは、競って明から書や絵画を購入した。

展示場の一角には、中国の代表的な陶芸品が並んでいた。唐三彩の三彩万年壷、緑と青の色合いが美しい。白と黒のコントラストが印象的な白釉黒花牡丹文梅瓶。左右対称のシンメトリーが美しい青磁鳳凰耳瓶。景徳鎮の青花などなど。

実際に、木の葉を茶碗の中に入れて焼いた、黒釉木の葉文椀。葉の葉脈がくっきりと茶碗の底に表れている。

第2室には、朝鮮の美術品が展示されていた。

日本は、法華経の国だが、韓国は華厳経の国だ。高麗時代の高麗版 貞元新訳華厳経疏。その文字の一つ一つを、実に丁寧に書いていることがよくわかる。この経典への思いが、伝わってくる。

朝鮮といえば、やはり陶芸。青磁、白磁などの名品が並ぶ。

松江藩主、松平不味が所有していた井戸茶碗、美濃という銘を持っている。一見すると、何ということのない井戸茶碗のように見えるが、よくよくみると、上薬の微妙なピンクを帯びた色合いが、複雑な文様のように、器を取り巻いている。

会場を後にしながら、ひょんなことから、海を越えて、この国に腰を落ち着けた、美しい品々の不思議な縁について、考えざるを得なかった。

茶道具の行方〜曜変・油滴天目−茶道具名品展(静嘉堂文庫)


静嘉堂文庫創設120周年、美術館開館20周年を記念する特別展のシリーズ。最後は、曜変・油滴天目−茶道具名品展、と題し、岩崎弥之助・小弥太の親子2代にわたって収集された、茶道具の名品の数々が展示された。

茶の湯となると、さすがにファンの裾野が一気に広がるようで、いつもは休日でも閑散としている会場が、多くの人で賑わっていた。

そうした人々のお目当ての1つは、やはり、曜変天目(稲葉天目)だろう。

12〜13世紀の南宋時代、今の福建省の建窯で焼かれた。徳川家の持ち物だったが、3代将軍家光から、春日局に送られ、その後は生家の稲葉家に長く伝わっていた。

世界に3つしか残っていない曜変天目は、そのすべてが日本にあるが、この稲葉天目が、最も鮮やかな曜変であるといわれる。目の前にすると、その鮮やかには、思わず目を奪われる。ずっと見ていると、その青い世界の中に、引き込まれていくような錯覚さえ覚えてしまう。

鎌倉時代から南北朝、室町時代にかけて、当時の支配階級であった有力な武士階級の人々が、こうした茶道具を、中国から多く買い入れた。

会場には、同じ時代に焼かれた、油滴天目、灰被天目、玳皮天目なども展示されていた。

やがて、戦国時代から安土桃山時代にかけて、堺の商人であった武野紹鴎が侘び茶を始め、同じく堺の商人、千利休がそれを大成する。

その武野紹鴎が所持したという猿曵棚。中国から輸入されたいわゆる華麗な唐物とは違い、木の素材をそのまま活かしたシンプルな作りは、侘び茶というものの性格をよく表している。

この猿曵棚は、その後、古田織部を通じて、伊達家に伝わり、明治維新後、その他の大量の茶道具一式とともに、岩崎家に売却された。

武野紹鴎が所持していたことから、その名がついた茶入、紹鴎茄子。その後豊臣秀頼が所持していたが、大阪城の戦火の中で粉々に砕けてしまった。家康がその修復を藤重藤元・藤厳親子に命じ、漆で繋ぎあわせることで、見事に再現し、今日でもその美しい姿を見ることが出来る。

千利休の茶杓、銘は「両樋」。茶杓の先の折れ曲がりがやや長い、いわゆる利休好みの茶杓。

利休に続く、古田織部、小堀遠州らも、自らの好みを明確に主張し、新たな茶の湯の模索を続けていった。

江戸時代になると、大名たちが、多くの茶道具を買い求め、熱心に茶の湯を学び、茶会を行うようになった。

中でも、出雲藩の松平治郷(不味)は、茶道具の収集家として知られる。その不味公が作らせた、金箔を大胆に使用した絢爛豪華な、片輪車螺鈿蒔絵大棗。そこには、利休の侘び茶の精神はない。これこそが、不味好みということだろう。

その後、明治時代になると、多くの大名家は没落し、岩崎家を代表する明治の財閥グループにその茶道具を売り渡した。

この静嘉堂文庫の記念展では、こうした茶道の流れを、縁のある作品を通じて、概観することが出来た。

2013年3月17日日曜日

ラファエロがいっぱい〜ラファエロ展(国立西洋美術館)


日本における展覧会で、これほど多くのラファエロの絵画を鑑賞できる日が来るとは、まるで想像していなかった。

東京、上野の国立西洋美術館で開催された展覧会には、23点ものラファエロが描いたと思われる作品が展示された。

ラファエロというと、まっさきに聖母子像が思い浮かぶ。この展覧会の目玉である、大公の聖母は、その代表作の一つ。

黒い背景に、幼いキリストを左手に抱いた聖母マリアが、ぼんやりとした光の中に浮かんでいる。マリアは、やや伏し目がちに、少し右に首を傾げている。ラファエロは、マリアの表情の中に、まさに母性そのものを描いている。

幼いキリストの表情は、母の胸に抱かれている安心感と、自分の厳しい将来を予感している緊張感で、穏やか中にも、やや不安げに見える。

マリアは、赤い色の服の上に、青いガウンをまとっている。キリストの磔刑を象徴する赤と、平安を象徴する青。ラファエロは、様々な記号を使って、この母子像を描いている。

背景の黒い部分は、今となっては、聖母子を画面に浮き上がらせる効果を生み出しているが、実は、もともとは、背景には景色が描かれていたという。

無口な女(ラ・ムータ)は、ルネサンス時代によく描かれた、女性の半身像。描かれている女性は、決して美化されていず、現代でもよくいそうな表情をしている。

髪の毛は、かなりおおざっぱに描きながら、女性の着物の文様は、実に細かい筆使いで描かれている。その文様が、ラファエロが、ヴァチカン宮殿のインテリアのためにデザインした文様と同じだったのが、印象に残る。

ラファエロは、ヴァチカン宮殿内の、教皇のための施設の中に、アテネの学堂を始めとした沢山の作品を描いたが、絵を描くだけでなく、回廊全体の設計を行ったり、そこに飾られるタイルのデザインなども行っていた。会場には、そのタイルの一部も展示されていた。

入り口に展示されていたラファエロの自画像。端正な、穏やかな顔立ちで、一般的に考えられているラファエロのイメージそのまま。これは1504年から1506年頃に描かれた。

もう一枚の自画像が展示されていたが、こちらは1518年から1520年頃に描かれた。こちらはヒゲ面で、ワイルドな印象の自画像で、まるでカラバッジオのようなイメージ。

ラファエロは、わずか37才で亡くなってしまったが、純粋に絵を描き続けた若者、という印象が強い。しかし、実際は、法皇に取り入るために様々な努力を惜しまなかったり、女性関係も派手だったようで、イメージとは違った人物だったようだ。

4世紀にカッパドキアに生まれた、キリスト教の聖人を描いた、聖ゲオルギウスと竜。ゲオルギウスが、馬にまたがり、竜を退治する、という伝統的な構図。

ゲオルギウスがまたがっている馬は、おいしいエサをいっぱい食べているのか、たくましく肥えていている。それに比べ、竜は、小さく、弱々しい。退治される竜の方に、同情してしまう。

同じく、動物が描かれている、エゼキエルの幻視。聖書のエゼキエル書に記されている不思議な生き物を、翼の生えた牛、ライオンそしてワシの姿で描いている。

最後のコーナーには、ラファエロ以降の影響を受けた画家たちの作品が展示されていた。

中でも印象に残ったのは、ペリン・デル・ヴァーガの聖母子像。ラファエロのものとは違い、マリアもイエスも、まっすぐにこちらを見つめている。イエスは、右手を上げ、小指と薬指を曲げ、他の3本の指を開いた不思議な印をしている。

マリアの方も、下に向けられた左手で、人差し指と中指を大きく開いている、こちらも不思議な印を作っている。

この展覧会の名前は、そのものずばりの”ラファエロ”。確かに、この展覧会を表現するためには、他の言葉は不要だ、と思わせる内容だった。

2013年3月16日土曜日

ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家(横浜美術館)


横浜美術館で、ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家、という展覧会が開催された。

ロバート・キャパは、世界で最も有名な写真家の一人だろう。しかし、ゲルダ・タローという名前は、それに比べてあまり知られていない。

ゲルダは、キャパの恋人だった。ドイツのシュトゥットガルトでポーランド系ユダヤ人の子として生まれ、ナチスの迫害を逃れパリに移り住み、そこでアンドレ・フリードマンに出会った。

アンドレ・フリードマンは、駆け出しの報道写真家だったが、ゲルダのアイデアで、アメリカの映画監督フランク・キャプラの名を借りて、ロバート・キャパと名乗った。

ゲルダも、本名は、ゲルタ・ポホレリという名で、グレタ・ガルボと岡本太郎からヒントを得て、ゲルダ・タローという名に変えた。

最初のコーナーは、Part Iとして、ゲルダの写真が80枚程展示されていた。これまでは、それらの写真は、キャパの写真として紹介され、ゲルダとして展示される機会は、あまりなかったという。

ゲルダの写真は、キャパの写真に比べると、構図や演出をあまりせず、対象そのものを、そのまま写しているように見える。

写真のほとんどは、ゲルダがアンドレとともに取材した、スペイン内戦の様子を撮影したもの。

今では、ガウディの建築などで世界的に有名な観光都市となったバルセロナ。ゲルダが1936年に撮影した写真の中には、その華やかな面影は全くない。戦場そのものだ。

ゲルダは、1937年に、そのスペイン内戦の中で、戦車同士の衝突事故に巻き込まれ、わずか27才で亡くなった。アンドレは、その悲しみから、数日は部屋で泣き続けていたという。

ゲルダは、始めは、自分の写真を、アンドレと同様に、キャパの名前で発表していたが、次第に独立し、ゲルダの名前で写真を発表するようになっていた。もしかしたら、二人の間には、二人にしかわからない、葛藤があったのかもしれない。

後半のPart IIは、ロバート・キャパ(アンドレ・フリードマン)の作品が、200枚程展示されていた。

ゲルダと活動していたスペイン内戦の様子を撮影した写真の数々。戦場の写真もあるが、バルセロナやマドリードの街中の様子を写した写真も多い。

そして、キャパの最も有名な写真のひとつ、若い兵士がうたれる瞬間の写真。その前には、多くの人集りが出来ていた。

1938年に、日本軍の侵略と内戦に苦しんでいた、中国で撮影された写真。一般の中国人の他に、孫文夫人、蒋介石、蒋介石夫人、周恩来などの歴史上の人物も撮影している。

そして、こちらもキャパの代表的な写真。ノルマンディー上陸作戦の兵士を写した写真。キャパは、上陸作戦の先頭を切った部隊とともに、オマハ・ビーチに上陸し、その写真を撮影した。

写真は、ちょっとピンぼけ(Slightly out of focus)している。キャパは、自伝の題名に、そのように名付けた。

自伝の中で、キャパは率直に、その日の恐怖を語っている。その恐怖の中で撮影されたこの写真によって、キャパの名は、伝説になった。その後の、多くの報道写真家を目指した若者たちは、この写真のような、あるいはそれを越える写真を撮ることを夢見た。

キャパは、戦後の1954年に日本も訪れて、多くの写真を撮影している。東京駅、東大寺、大阪の四天王寺、京都の桂川などなど。

その後、内戦のヴェトナムを訪れ、その地で命を落とした。

会場の最後には、死の直前に撮影した、戦場の写真が展示されていた。低い草の生えたなだらかな平原を、少し広がりながら歩く兵士の一団を撮影している。

戦争がなければ、のどかに散歩できるような平原だが、地雷や敵の攻撃を警戒する兵士たちの緊張感が、その背中から伝わってくる写真。

一度シャッターを押せば、そこに写るものは、誰が撮影しても同じ。しかし、そのシャッターを押すまでに、その写真家のすべてが表れる。

ロバート・キャパという名前の写真家の作品の数々は、何よりも増して、写真というものの本質を表している。

2013年3月9日土曜日

建築家のあり方を根底から問い直す 〜 ここに、建築は、可能か(ギャラリー間) 

昨年の第13回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展で、陸前高田の「みんなの家」を出展した日本館は、見事に、金獅子賞を受賞した。

その展示の内容が、乃木坂のギャラリー間において、再構成した形で展示された。

2011年3月11日に起こった東日本大震災は、日本人に、多くのことを考えさせた。とりわけ、建築家にとっては、建物が次々に津波に流されていく光景、その後の何もない地に建てられた仮設住宅、そこでの人々の暮らしなどは、改めて、建築とは何かを考える大きなきっかけとなった。

建築家、伊東豊男は、陸前高田の地を訪れ、”ここに、建築は、可能か”というテーマをつきつけられた。

みずから設計した「みんなの家」の第1号は、なんの変哲もない集合所だった。そこには、建築家の個性といわれる片鱗のかけらもない。世界中にその名の知られた伊東が、そのような建物を設計したということに、東日本大震災という災害の大きさが表れている。

伊東は、その2つ目の「みんなの家」の設計を、若い3人の建築家、乾久美子、藤本壮介、平田晃久に託した。ヴェネツィア・ビエンナーレに展示したのは、その設計から、完成に至るドキュメンタリーだった。


会場の壁には、陸前高田出身の写真家、畠山直哉が撮影した、陸前高田の何もない風景が一面に貼られている。

入ったすぐの所には、初期の3人の設計案が展示されている。まだ、それぞれの個性が前面にでた、ある意味でバラバラな住宅模型。




会場の右手には、徐々に3人の案がまとまりつつある過程が再現されている。

現地を訪れた3人は、現地の人々との会話の中で、設計のアイデアを得た。津波による塩害で伐採を余儀なくされた杉の木の存在が、大きな影響を与えている。

その上に、設計案の模型が展示されている丸太の木々も、陸前高田の杉の木。実際に、ヴェネツィアでも、陸前高田の杉の木を使って展示が行われた。



そして、ついに完成した、「みんなの家」の最終模型。


最終案の作成には、メンバー全員が実際に現地を訪れ、現地の人々の声も取り入れながら行われた。


会場の上の階には、現地での建築の様子を、畠山が撮影した写真が展示され、ビデオ映像も流されている。


ここに、建築は、可能か、という悲愴にもとれるコンセプトのもとに始められたプロジェクトだが、陸前高田の地における、伊東をはじめとしたメンバーたちの、はじけるような笑顔の写真が、強く印象に残る。

それは、なによりも、物を作るということの楽しさを、表しているようだった。


少し斜めにこのプロジェクトを見ることもできるだろう。結局は、建築家たちの自己満足だったのではないか。ビエンナーレで金獅子賞をとるという、売名行為だったのではないか、などなど。

しかし、伊東の、ビエンナーレにむけて、次のコンセプトの中のこの言葉に、このプロジェクトのすべてが表されているように思えた。

個による個としての建築家のあり方を根底から問い直そうと試みる。

東日本大震災によって、多くの尊い命、多くのものが失われてしまった。それは、あまりにも多すぎた。

しかし、そこから得られたものも、わずかながらでも、あったのではないか。

会場を後にしながら、そんなことを考えた。

江戸の文化とは歌舞伎のことである 〜 歌舞伎 江戸の芝居小屋(サントリー美術館)


2013年4月に、明治以来、5代目に当たる、新歌舞伎座の会場が行われる。

それに合わせて、六本木のサントリー美術館で、歌舞伎 江戸の芝居小屋、という名の展覧会が開催された。

折しも、その直前に、18代目中村勘九郎に続き、12代目市川団十郎も亡くなってしまい、歌舞伎界は大きなショックに見舞われていた。

歌舞伎は、江戸時代の初めの京都で、出雲阿国によって演じられたかぶき踊りが、その祖であるといわれている。出雲阿国の興行を描いたといわれる、江戸時代の屏風絵には、男装して踊る阿国の姿が描かれている。

その後、江戸幕府によって、女性が歌舞伎を踊ることは禁じられた。

今では、決して見ることの出来ない、華やかなその光景は、いくつかの美しい屏風絵の中だけに、その雰囲気だけが残されている。

歌川豊国らの浮世絵師によって描かれた、江戸時代の歌舞伎の芝居小屋の内部の様子。西洋の遠近法で描かれた芝居小屋の中で目につくのは、舞台の上の役者たちより、それを見物している江戸の町民たちの姿だ。

食事をしたり、お酒を飲んだり、隣の人と歓談に興じたりと、今日の観客席の様子とは全く異なっている。中には、喧嘩をしている人々もいて、何でもありの空間だったことがわかる。

そして、展覧会のハイライトは、なんといっても浮世絵。鳥居清信、奥村政信、勝川春章、歌川豊国、国芳らによって描かれた、多くの役者絵が展示されていた。歌川広重も、名所江戸百景の中で、歌舞伎小屋があった猿若町の様子を描いている。

役者の個性、その役柄の雰囲気、華やかな衣装を、どのように描くかが、その浮世絵師の絵の力を図る大きなバロメーターだった。シンプルな線だけでそれを表現した鳥居清信、豊かな色彩と大胆なデフォルメの歌川豊国。

そうした浮世絵には、個々の役者のみならず、当時の江戸の雰囲気が描かれている。

会場には、多くの歌舞伎ファンが訪れており、あの役者の先祖がこの浮世絵だとか、この間のあの舞台は面白かった、などと、友人と会話しながら展示物を鑑賞している人が多く、ふつうの展覧会とは、その様相を異にしていた。

この展覧会を見ると、歌舞伎は、その誕生以来、つねに危機に見舞われていたことがわかる。それが、今日まで、およそ400年も続いてきたのは、たゆまぬ模索を続けた興行師、役者と、それを厳しい視点と熱い思いで支えた観客があったからだということが、よくわかった。

これからも、歌舞伎が真の芸術として生き残っていくかどうかは、その関係を、受け継いでいけるかどうかに、かかっているといえる。

2013年3月3日日曜日

最後のユートピア 〜 アノニマス・ライフ 名を明かさない生命(NTTインターコミュニケーション・センター)


東京オペラシティーにある、NTTインターコミュニケーション・センターにおいて、アノニマス・ライフ 名を明かさない生命、という名の展覧会が開催された。

アノニマスとは、匿名、名前のわからない、個性がない、という意味を持っている言葉。展覧会では、ロボットと人間、男と女、個人というアイデンティティ、といった境界をテーマにした7つの作品を展示していた。

石黒浩が製作した、ロボットのリプリーQ2が、会場の一角に座っていた。座っていた、と書いたが、リアルなそのロボットは、実にリアル。本当のうらわかき女性が、座っているように見える。

微妙に手足を動かしたり、瞬きを繰り返している。近づいてよく見ると、眼球と眼元の肌の間にスペースが見え、ロボットということがわかる。そこまで意識しなければ、ロボットと気がつくまでには、時間がかかるかもしれない。

渡辺豪のアエウム。巨大なスクリーンに、少女とおぼしき大きな顔が映されている。しばらく座って眺めていると、瞬きしたり、口元を動かしたりする。何よりも、その眼に引きつけられる。

スプニツ子!は、菜の花を使ったインスタレーションを展示。震災後、菜の花が放射能を吸収する働きがある、ということを知ったことから、この作品を思いついたという。

歩くと、地中に菜の花の種を植える、という不思議な靴が、作り物の菜の花の畑の中に、白雪姫のガラスの靴のような雰囲気で飾られている。

自然の力が作り上げた、菜の花という植物に比べて、人間の作るアート作品の貧弱さが、強調されているようにも思われた。

かつては、名前を相手に知られることは、相手に支配されることを意味した。アノニマスとは、そもそも支配しようとする側からみた概念から生まれた言葉だ。

現代において、アノニマス・ライフ、名を明かさない生命であるということは、逃げ場がなくなった現代社会から、逃げ出そうともがく現代人たちの、最後のユートピアなのかもしれない。

新井淳一の布 伝統と創生(東京オペラシティーアートギャラリー)


寡聞にも新井淳一の名を知らなかった。

東京オペラシティーアートギャラリーで開催された、新井淳一の布 伝統と創生、という展覧会で、新井の革新的な作品を目の当りにすることが出来た。

新井は、1932年に、織物で有名な、群馬県の桐生市で生まれ、伝統的な布作りを行う一方で、新しい素材を使った布作りにも取り組み、三宅一生や川久保玲らのデザイナーとの協業などによって、世界的に名前を知られるようになった。

会場は、大きく3つのGalleryに別れていた。

最初のGalleryは、自己組織化。ウールやナイロンの他、アクリル、ポリエステル、アルミニウムなどの様々な素材を使い、カラフルで多彩な触感をもった新井の布が、会場一杯に並べられている。

周りの壁には、各種の製法の解説があり、サンプルを触ってその感触を自ら確かめることができるようになっている。

2番目のGalleryは、精神と祈り。まず、渦巻き上に垂れ下がった布の間を、抜けていく。すると、その向こうに、高い天井から吊るされた、様々な布素材が表れてくる。

1枚1枚の布は、素材も、色合いも、表面に表れているイメージも、みな異なっており、これまで、見たこともないような不思議な空間が広がっている。

一番奥の壁一面には、大きな布が貼付けられている。近くによって見ると、布は細かいシワがあり、所々が盛り上がり、山のようになっている。まるで、別な星の表面を、宇宙船から眺めているような、奇妙な錯覚に襲われた。

そして、最後のGalleryは、創生の火種。新井が世界各地で撮影した写真のスライドが、展示会場の床いっぱいに写されている。来場者は、そのスライドの上を歩きながら、出口に向かう。

新井は、世界中の様々な民俗の工芸品や、風景、人々の身にまとっているものなどから、実に多くのインスピレーションを得ていたようだ。

布という素材だけを使って、これほど印象の深い展覧会を構成できるとは、夢にも思わなかった。

2013年3月2日土曜日

古都鎌倉で奇跡の記録を見る 〜 実験工房展 戦後芸術を切り拓く(神奈川県立美術館)



古都、鎌倉にある神奈川県立美術館、およびその別館において、現代への扉 実験工房展 戦後芸術を切り拓く、という名の展覧会が開催された。


初めて、この美術館を訪れた。

その印象的な建物がまず目に入る。ル・コルビュジェに師事した板倉準三による設計の建物で、日本を代表する近代建築の1つだろう。

実験工房は、1951年から1957年に、公演を中心に活動を行った、芸術家集団。詩人で美術評論家でもある瀧口修造の、”日本の近代芸術は・・・何よりも実験精神が必要だと思います”という言葉から、その名前が取られている。

そのメンバーには、作曲家の武満徹、湯浅譲二、画家の福島秀子、版画家の駒井哲郎などの錚々たる名前が並ぶ。

直接グループには関わらなかったが、交流したメンバーには、岡本太郎、三島由紀夫、谷川俊太郎、黛敏郎、芥川也寸志、オノ・ヨーコなどがいた。

展覧会場には、公演のパンフレット、写真や映像、衣装や舞台のデザインのための資料、楽譜、参加した作家たちの作品などが並んでいた。

その最初の公演は、1951年に日本橋の高島屋で開催された、ピカソ展との連動企画としてのバレエ『生きる悦び』の公演だった。

しかし、残念ながら、その資料はほとんど残されていない。展示スペースには、パンフレットや楽譜、写りの悪いセットの写真などしか展示されていない。文字通りの、伝説の公演だった。

1955年に行われた公演は、シェーンベルグの『月に憑かれたピエロ』を仮面劇に仕立てた公演。アルルカン役に能役者の観世寿夫、ピエロ役に狂言師の野村万作を迎えた、伝統芸能とのコラボレーションによる実験的な内容。

会場には、当時の貴重なカラースライドがスライド上映され、その画期的な舞台の再現を行っていた。

その同じ日の公演では、三島由紀夫の『綾の鼓』という近代能楽集からの作品も上映された。今日では、想像もできないような、奇跡のような公演といっていい。


別館では、実験工房のメンバー、北代省三、山口勝弘が美術で参加した、『銀輪』という松本俊夫監督の1956年の映画が上映されていた。

自転車の車輪が、子供の想像力で、様々なイメージに変わっていくという、文字通り実験的な作品。特撮は、ウルトラマンなどの生みの親、円谷英二が担当していた。


それにしても、戦後の芸術に先駆的な実験工房という芸術グループに関する展覧会が、鎌倉という古い都のあった地で開催されたのは、実に興味深い。

この展覧会で目にしたものは、戦後の1951年から1957年という混乱から安定への時代の中で、確実にこの世に実現した、奇跡の記録といっていいだろう。

2013年2月28日木曜日

映像表現の最前線で〜恵比寿映像祭(東京都写真美術館)



今回で5回目を数える恵比寿映像祭。今回のテーマは、public ⇄ diary。映像は、社会的な記録手段としても使われるし、個人にとっては、日記のようにも使える。その両面の性格に焦点を当てた。

会場の東京都写真美術館のある、恵比寿ガーデンプレイスのオープンスペースに、そのテーマを象徴するような作品が作られていた。


鈴木康広による、記憶をめくる人。上部には、巨大な本のオブジェがあり、その下には、机とその上で、日記のようなメモを書くようなセットが置いてある。


時間が遅くなると、様子が変わるようだが、私が訪れた時は、このままの状態で、その威容を誇っていた。

映像祭は、有料の映画やシンポジウムと、無料の展示会で構成されていた。美術館全体を使っての展示会から、記憶に残ったいくつかの展示を記す。

昭和13年から20年まで、国民の戦意高揚のために発行された写真雑誌、国民週報。生活は大変だけど皆で乗りきろう、という呼びかけや、空襲の時の、避難の仕方、身の守り方などの実用的な情報などが掲載されている。

同じ写真が、時代の変化によって、まったく違う取り扱いを受けている。そのことを、これほどよく表す資材は、他にないだろう。

ヒト・スタヤルのキス。ボスニア紛争で行方不明になった人々を、遺された痕跡から、3D画像で現代に蘇らせる。3D映像という新しい表現を、効果的に使い、圧倒的な存在感で、見る者の心に迫る。映像以外、何の説明もいらない。

ベン・リヴァースのスロウ・アクション。長崎の軍艦島など4つの島を舞台に撮影した4つの映像作品を、4つのスクリーンに、それぞれ向かい合うようにして上映した。

目の前で、同じような、神話にまつわる4つの物語が同時に展開されるのは、不思議な感覚を呼び起こす。

ワリッド・ラードのただ泣くことができたら(オペレーター#17)。レバノン軍で、海辺の監視映像を撮る役目を持っていた兵士、オペレーター#17が、本来の目的を忘れ、夕日の映像だけを撮影していた。

兵士はそのことが発覚し、軍を除隊処分になったが、映像は手に入れることが出来た。ラードは、その映像を入手し、自らの作品として公開した。会場では、その生の映像を、編集なしでそのまま流していた。

公の目的で撮影すべき映像を、自らの撮りたいもの映像にしてしまった、という今回の映像祭のテーマにピッタリの作品。

このレバノン人のオペレーターは、山地で生まれ、しかも近くでは戦闘が行われるような環境で育った。いつか、平和な海辺の街で、夕日を眺めるような暮らしがしたいと、ずっと思い描いていたという。


映像表現の現在、そして未来の姿。あるいは、その本来の形とはどんなものなのか。いろいろと思いを巡らせることが出来た、実に興味深い映像のお祭りだった。

2013年2月23日土曜日

豊潤な美術、貧困な概念〜オリエントの美術(出光美術館)


日本美術やルオー、ムンクなどのコレクションで有名な出光美術館は、オリエント美術の分野でも、国内有数のコレクションを有しているという。

出光美術館で、そうした作品を展示する、オリエントの美術、という名の展覧会が開かれた。

紀元前4,000-3,000年期のイランの壷や食器には、羊などの動物の絵が描かれている。デザイン化された、そのシンプルなイメージは、まるで現代のイラストのよう。当時の人々のデザインセンスの豊かさに感銘を受ける。

紀元前7世紀のエジプトで作成された、朱鷺の青銅の像。まるで、目の前に本物の朱鷺がいるような、その写実的な表現は、壁画の様式的なファラオ像などのエジプト美術のイメージを、大きく裏切る。

文明の発展とともにエジプトに生まれた、そうした写実的な精神は、やがて対岸のギリシャに伝わり、ギリシャ美術を生み出すことになった。

紀元前2,000年頃のシュメールの楔形文字が刻まれた粘土版。人類が、初めて文字を生み出したその現場に、まるで立ち会っているような不思議な感覚を覚える。

ローマ時代に、吹きガラスの技法が生み出されるまでは、ガラスは透明なものではなかった。その技法前と後の作品が一堂に展示され、技術の進歩を目の当りにすることができる。

透明でないガラス器の数々は、現代から見ると、新鮮に見える。

最後のコーナーには、イスラム美術の数々が展示されていた。

イランには、古代より絵画芸術の伝統が息づいている。イスラム教では、偶像崇拝は禁止されているはずだが、イスラム化した後のイランでは、その伝統は途絶えることはなかった。

美しいラスター彩などの陶器には、動物や人物像などの多彩なイメージが描かれている。陶器ということもあるが、その描き方は実に素朴で、微笑ましい。

トルコのイスタンブール近郊のイズニックで生まれたイズニック陶器。現代では再現が難しいといわれる”血の赤”の鮮やかな赤色は、深い印象を残す。

そして、イスラム美術を代表する細密画の数々。イランに生まれた細密画の技術は、インドやトルコにも伝わった。

文字通りのその細かい描写に、思わずガラスに顔を近づけて覗き込んでしまう。一体、どんな細い筆を使って、これらの絵は描かれたのだろうか?インドでは、リスの毛を使っていると聞いた。

それにしても、サイードの有名な本を引くまでもなく、オリエントという概念は、実にあいまいな概念だ。

この日の展覧会は、オリエントの美術という名称だが、時間の長さでは、およそ5,000年間。地域でいえば、イラン、イラク、エジプト、トルコ、そしてローマ。

つまり、時間的にも地理的にも、ほとんど人類史に近い範囲をカバーしていることになる。

オリエントの名を冠して開催されたこの展覧会は、皮肉にも、その美術の豊潤さと、その概念の貧困さを、明確に対比することになった。

2013年2月20日水曜日

メディアアートの現在〜文化庁メディア芸術祭受賞作品展(新国立美術館)

東京、六本木の新国立美術館で開催された、第16回文化庁メディア芸術祭の受賞作品展を訪れた。

入場が無料ということもあり、学生や若者、スーツ姿のサラリーマンなど、様々な人々が会場を訪れていた。

展示スペースは、4つのコーナー、アート部門、エンターテイメント部門、マンガ部門、アニメーション部門に別れている。


アート部門の大賞は、スイスのCod.ActのPendulum Choir。男性のコーラスグループが、鉄の棒のような物の先に固定され、歌に合わせて、ゆっくりと振り回されている。

何が言いたいわけではなく、ただ、インパクトのある映像表現。ビジュアルアートの特質をよく表している。


三上晴子の欲望のコード。人がカメラの近くによると、センサーがそれを捉え、人の動きに合わせて、カメラが追尾し、その映像を撮影する。その映像が、地球のような球体の画面に映される。


震災をテーマにした作品も、何点か目についた。これは、佐野友紀のほんの一片。震災で発生した瓦礫を、写真にとったうえで、彩色した作品。

圧倒的な力を持っている作品。何の説明も必要としない。


エンターテイメント部門の大賞は、Perfume "Global Site Project"。Perfumeの音楽に合わせて、様々なバリエーションの3人組のユニットが、映像の中で踊っている。


水道橋重工のKURATAS。ガンダムの世界から飛び出してきたようなロボットが、都心を走り回る映像は、強烈なインパクトがある。


アニメ部門は、他の部門に比べると、展示のインパクトの度合いは低いが、展示されているデッサンを、多くの人が覗き込んだり、写真をとったりしている。

こんな時代だからこそ、ペン一本で世界を表現しようとするマンガには、存在感がある。

最後は、アニメーション部門。大賞は、大友克洋の火要鎮。

会場には、モンキーパンチのルパン3世や、宮沢賢治の童話を映像化した、グスコーブドリの伝記、などのお馴染みの作品も並ぶ。

他のアート展のような堅苦しさもなく、会社帰りや昼休みに気軽に楽しめる内容だった。

何となく、若手の登竜門のようなイメージをこれまで持っていたが、大賞の受賞者をみると、そうではないようだが、何となく、納得のいかない思いも、心に残った。

新国立美術館の会場以外にも、いくつかのサテライト会場があり、関連するイベントを行っていた。


これは、東京ミッドタウン。”あなたは六本木をどうデザイン&アートの街にしますか?”というアンケートを実施していた。

2013年2月17日日曜日

日本の美の源流を尋ねて〜琳派から日本画へ(山種美術館)


東京、広尾の山種美術館で、琳派から日本画へ —和歌のこころ・絵のこころ— という名前の展覧会が開かれた。

会場に入り口に、俵屋宗達の絵、本阿弥光悦の書による、鹿下絵新古今和歌集和歌巻断簡、が飾られていた。

下絵の中央に、宗達の絵による、鹿が佇んでいる。その左右に、光悦の筆によって、西行の和歌が書かれている。

琳派は、この二人によって始まった。それは、平安時代に盛んに書かれた、美しい色紙の上に、和歌を書く、という形式を、新しい形で再現することから始まった。

続く展示品は、そうした平安時代の美しい書の数々。

たった一人で、5,000巻を越える一切経を書ききった藤原定信による貫之集や和漢朗詠集、その父の藤原実光による古今集、定信の子の藤原伊行による和漢朗詠集など。

美しい和紙の上に、美しい文字が並んでいる。悲しいことに、同じ言葉を使っているはずなのに、その文字が読めない。隣に並べられている、楷書による和歌をみないと、そこに書かれているものがわからない。

しかし、その文字は、造形的にも、見ていて美しい。

戦国時代に連歌師として、織田信長、豊臣秀吉、細川幽斎などと交流も持った里村紹巴が書いたという、連歌懐紙。

こちらも美しい下絵の上に、紹巴のダイナミックな筆使いの漢字や、繊細な筆使いのひらがなが並んでいる。

琳派の絵師たちは、絵の題材として、平安時代に生まれた物語からの場面をよく取り上げた。

俵屋宗達による、源氏物語 関屋・澪標。酒井抱一による、伊勢物語からの宇津の山図など。

そして、近代の日本画の画家たちも、そうした琳派の伝統を引き継いでいった。

横山大観の竹。何本かの竹が、絵の中で重なりあっている。大観は、墨の濃淡で、その重なり具合、遠近感を表現する。

竹の葉は、一筆で、まるで、文字を書くようなタッチで描かれている。下絵の上に、文字を重ねる伝統を、まったく新しい視点で捉え直していて、とにかく、美しく、素晴らしい。

速水御舟の紅梅・白梅。左側の白梅は、細い枝が、左中央付近から、右上にまっすぐ伸びている。よく目を近づけると、細い筆で、一本線で、まるで文字のように描かれている。

そうした作品の中では、文字と絵が一体となっている。画家の筆から描かれるものは、文字でもなく、絵でもなく、単なる、”美しいもの”、にすぎない。

日本の美の源流に、たどり着いたような、そんな気持ちで会場を後にした。

2013年2月16日土曜日

伝説とコピー〜書聖 王羲之展(東京国立博物館)


上野の東京国立博物館で、書聖 王羲之展が開催された。

それにしても、不思議な展覧会だ。王羲之、Wang Xizhiの名前を冠しながら、その本人の書いた、いわゆる真筆は、1点も展示されていない。

レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロの名前が冠される展覧会でも、最低でも、デッサンなども含め、最低1点は何らかの作品が展示されるのが通例だ。でないと、”金を返せ”ということになりかねない。

しかし、こと王羲之に関しては、そんな文句を言う人間はいない。なにしろ、現在、王羲之の真筆を展示できる美術館は、世界中を探しても、どこにも存在しないからだ。

書聖といわれる王羲之の、最高傑作と言われているのが、蘭亭序。本人も、この書が一番良く書けた書であると、認めていたという。

この展覧会では、会場の一角をすべてこの蘭亭序にあてていた。

東晋の永和9年(353)3月のある日。紹興酒で有名な紹興の蘭亭というところで、王羲之が主宰する酒宴が開かれた。そこで、詠まれた数々の詩が詩集として編まれ、王羲之がその序を書いた。それが蘭亭序だ。

唐の大宗皇帝は、王羲之を愛し、とりわけこの蘭亭序を愛した。その愛は度を超しており、ついに、遺言で、自分の死後、自らの墓に、その真筆を収めることを命じた。

王羲之は確かに優れた書を書いたが、この唐の大宗皇帝の偏愛によって、王羲之は一流の書家から、伝説になった。皇帝の権威が、王羲之を特別な存在にした。

その後、長い歴史の過程で、王羲之の真筆はすべて失われ、そのコピーだけが今日に伝わっている。勿論、この展覧会でも、展示されているのは、すべてコピーだ。

20点以上の蘭亭序のコピーが展示されている。その様子は、別な意味で壮観だ。

文化とは、芸術とは、ある意味では、コピーする、ということなのかもしれない。生物も、遺伝子を通じて、その存在をコピーしている。

この展覧会では、王羲之のコピーとともに、王羲之に至る書の歴史を学べるように、甲骨文字や青銅器に彫られた、古代中国の文字や、石に彫られた書なども展示されていた。

王羲之の時代は、紙に文字を書くことが一般化し、それまでの文字の書き方が大きく変わった時代だった。

それまでの公だった文字の使用が、知人への手紙などの個人的な用途に使われるようになった時代だった。

そうした王羲之の手紙や書簡には、神話や歴史上の出来事ではなく、王羲之の知人への細かい配慮、先祖の墓を荒らした蛮族への怒り、自分の何気ない日常、などが書かれている。

折しも、中国と日本の間には、尖閣諸島問題などの政治的な問題がホットな時期であり、この展覧会に展示される予定だった、展覧会の目玉となるいくつかの名品も、出展されなかった。

一部のアメリカ、香港から出品された作品を除き、ほとんどは国内の美術館や博物館からの出品だった。それでも、王羲之の展覧会としては、その伝説に相応わしい、内容だった。

このことは、いかに、この国の人間が、伝説となった、この書聖のコピーを尊んできたのかを、表していている。

そして、会場には、日本人よりも、むしろ、中国語を話している人の方が、多かったようにも思えた。

2013年2月14日木曜日

日本画の極地がそこに〜画の東西展(大倉集古館)


ホテルオークラにある、大倉集古館で、自らのコレクションを中心とし、江戸と京都を代表する日本画を紹介する、画の東西、という展覧会が開催された。

入口を入ると、いきなり、竹内栖鳳の蹴合が、来場者を迎える。2匹の闘鶏が、文字通り蹴り合おうとしている、その直前の瞬間を捉えた作品。

その2匹の間にある、緊張感を見事に表現したその作品は、静のイメージの強い日本画とは違った、もう一つの凄みを感じさせる。

そこに描かれている闘鶏が、まるで、偉大な勇者のように感じられる。動物を描いて、そこに、崇高さまで感じさせる、竹内栖鳳。さすがだ。

1階は、東西のうちの、東の画家の作品が並んでいるが、そのちょうど反対側には、横山大観の瀟湘八景の中から、3つの作品が並んでいた。

色鮮やかな闘鶏から一変。墨の濃淡だけで描かれた、大観独得の世界。

全体は、ぼかして描いて、しかし、細かい筆で、小さく家々や人物を描く。その絵を見る者は、まずは遠くからじっくりと眺め、次に、近づいて、その家々や人々を眺める。

特に、瀟湘夜雨という一枚。ぼかしの技法で、湖沿いの風景の湿気や霞まで捉えている。日本画の一つの極地が、そこにはある。

まだ2点の作品しか見ていないが、すでに、お腹いっぱいだ。

2階に上がると、今度は西の絵画。まずは、素朴な大津絵が来場者を迎える。子供が描いたような、その素朴な絵の数々に、思わず顔と心が緩む。

伊藤若冲の珍しい絵巻物、乗興船が展示されていた。夜の琵琶湖沿いの風景画。空を真黒に描き、湖水の風景を、薄い黒で描く。その発想の匠さに、思わず唸ってしまう。

そのほかにも、東からは、呉春、川合玉堂、西からは、英一蝶、円山応挙、狩野探幽らの作品を味わえる。

出店数は、わずか30点ほどだが、日本画とは何か、その1つの答えを与えてくれる、心に強い印象を刻む展覧会だった。

2013年2月12日火曜日

笠間でフィンランド陶磁器を堪能する〜アラビア窯展(茨城県陶芸美術館)


茨城県、笠間市の笠間芸術の森公園にある、茨城県陶芸美術館で、アラビア窯—フィンランドのモダンデザイン、という展覧会が開催された。

笠間市を訪れるのは初めてだった。東京から電車でおよそ2時間。笠間焼の里で、遠い北欧、フィンランドの陶器を味わえるとは、なんとも贅沢な展覧会だ。

訪れた時が、2月の3連休ということもあり、美術館のある笠間芸術の森公園では、いくつかのイベントも開催されていて、多くの家族連れが訪れていた。

その人並みを縫うようにして、展示会場に向かう。


展示品のほとんどは、岐阜県現代陶芸美術館のコレクション。およそ、100点程の、20世紀初頭から今日までの作品が、整然と展示されていた。

ヘルシンキ郊外のアラビア地区で、アラビア窯が創業したのは、まだフィンランドがロシア帝国の一部だった、1873年のこと。そのシンプルなデザインは、ヨーロッパ各地で開催されていた万国博覧会において、高い評価を受け、その存在は、次第に世界で知られるようになった。

折しも、フィンランドの地において、ナショナリズムの運動が高まっていた時期だった。フィンランドは1917年にロシアからの独立を果たし、アラビア窯はフィンランドを代表する陶磁器メーカーとなる。

展示品の中では、やはり、カイ・フランクがデザインした『キルタ』シリーズの存在感が群を抜いていた。余計なものをすべて削ぎ落としたシンプルなそのデザインは、北欧デザインの象徴でもある。

カイ・フランクは、1945年にアラビア窯のデザイナーとなり、アラビア窯を世界的な陶磁器メーカーに押し上げた。その後、イッタラ社でガラスのデザイナーにもなった。ちなみに、アラビア窯は、現在ではイッタラ社のグループ企業になっている。

カイ・フランクは、”日本文化の研究者”といわれるほど、日本の文化に精通していたという。そういわれてみれば、そのシンプルなデザインは、日本の禅の精神を連想させる。

そのカイ・フランクのシンプルさとは対局にあるデザインを生み出したのは、
ビルガー・カイピアイネン。一本の木に、オリーブやブドウなどがなっている、そのやわらく、鮮やかなデザインは、その皿にならべる食材を、より美味しそうに感じさせる。

展示品は、そうしたカイ・フランク系のシンプルでモダンなもの、カイピアイネン系の華やかなイラストの描かれたもの、そして、伝統的なコーヒーセットのようなもので構成されていた。

一方、茨城県陶芸美術館の常設展示場には、笠間焼のみならず、萩、備前、志野などの焼き物が展示されており、全国の陶器の特徴を知ることができる。


笠間芸術の森公園には、笠間焼を日本有数の陶器の産地に育て上げた、田中友三郎を記念する碑が建てられていた。田中は幕末に美濃の地に生まれた陶器商だったが、笠間焼の質の良さに注目し、窯を買い取り、明治後の東京の品評会で何度も受賞するまでに、笠間焼を育て上げたという。

これまで全く知らなかった、その田中友三郎という人物の生涯は、心に深い印象を刻んだ。

2013年2月9日土曜日

トレドと上野でグレコの絵を見て味わった感動〜エル・グレコ展(東京都美術館)


上野の東京都美術館で開催された、エル・グレコ展を見た。

世界中の美術館から、50点を越える作品が集結した、大規模なこのグレコ展にあって、その目玉とも言えるのが、会場の最後に展示されていた、無原罪のお宿り、だった。

3メートルを越えるその大作が、展覧会の最後の部屋で、観客を出迎えている。

キリストの母である聖母マリアが、原罪を持たずに生まれた、というキリスト教の教えをテーマとした絵画は、グレコのみならず、ムリーリョを始めとして、多くの画家が描いている。

このグレコの作品は、そうした数ある作品の中でも、最も印象的な作品の一つだろう。

画面の中央には、この絵の主人公である聖母マリアが、グレコ独特の、引き延ばされた存在として描かれている。

地上にはトレドの風景が描かれ、精霊の一人が、聖母マリアと地上の間で翼を広げている。野に咲く、薔薇とユリの花は、聖母マリアの象徴でもある。

聖母マリアの上半身は、すでに天上界に届いており、マリアの顔を中心に、円を描くように、精霊や天使が描かれている。

マリアの目は、羽ばたく一匹の白い鳩を見つめている。グレコの絵にたびたび登場するその鳩は、神からのお告げをマリアに伝えている。

この絵は、トレドのある礼拝堂の主祭壇を飾るために描かれた。およそ6年の歳月をかけて描かれ、グレコは、この絵を完成した翌年に、73才で亡くなっている。

この絵の印象があまりに強烈なため、この日、それまでに見てきた絵を忘れてしまいそうだ。

しかし、この展覧会には、グレコが生まれたクレタ島にいたころに描かれたと考えられるイコン画や、スペインに行く前に、ローマで描かれた作品など、普段は、あまり目にしない貴重な作品も展示されている。

宗教画と並んで、グレコが数多く描いた肖像画も多く展示されており、印象に残った。

グレコの肖像画は、顔の表情は勿論のこと、手先の描き方に特徴がある。何かを掴んでいたり、自分の胸に手を当てていたり、あるいは、本のある箇所を抑えている手など。

その描かれている人の性格、そのコンテキストに応じて、その人物の特徴をもっともよく表す手の表情をグレコが模索していたことが、見て取れる。

数年前に、グレコの絵を求めて、トレドの町を訪れれたことがあった。古いトレドの町は、細い通りが入り組んでおり、その中を、グレコの作品を展示している美術館や教会を求めて、一日中、歩き回ったことを思い出す。

展覧会の会場は、入り口から出口まで、広い一本道で、道に迷うことはない。しかし、グレコの絵を見ることで味わえる感動は、あの日の感動と、同じものだった。

2013年2月8日金曜日

銀座の街中で山と森の精霊と遊ぶ〜リクシルギャラリーにて

銀座にある、リクシルギャラリーで、山と森の精霊、という名の展覧会を見た。

気をつけていないと、通り過ぎてしまうそうな、細長いビルの2階に、リクシルギャラリーは、あった。

ついさっきまで、サラリーマンとすれ違っていたが、会場に入った途端に、九州の山奥にある、神楽の舞台に放り込まれた。


会場には、宮崎県の高千穂、椎葉、米良の神楽の様子を撮影したビデオ、写真などが展示されていた。

宮崎は、天孫降臨神話の地でもあり、国内でも飛び抜けて多い、300以上の神楽が伝えられ、今でも地元の人々によって演じられているという。

壁で区切られた、小さな空間に入ると、目の前に、多くの仮面がガラスの向こうの壁に、整然と並んでいた。

それらは、実際に、使われてきたものらしい。

まずは、その種類の多様さに驚かされた。

鬼、翁、女性、ひょっとこなどの仮面は勿論のこと、アフリカやポリネシアにあるような仮面、スターウォーズのダースベイダーのような仮面などもある。

ひとつひとつの仮面を、じっくりと対面する。どれも技術的には稚拙に思えるが、独特の味わいがあるのがよくわかる。

銀座の街中の、こんなに小さなスペースで、山と森の精霊の世界に遊ぶとは、なんとも贅沢で、豊かな時間だった。

2013年2月3日日曜日

漆の多様な世界を見る〜日本の漆−南部・秀衡・浄法寺を中心に


日本民藝館で開催された、日本の漆−南部・秀衡・浄法寺を中心に、という展覧会を見た。

日本民藝館の漆の工芸品のコレクションの中から、いわゆる南部漆を中心にし、その他の各地の漆の工芸品が展示された。

南部の漆椀は、秀衡椀、浄法寺椀などの種類があると言われる。秀衡とは、平安時代末期に奥州で勢力を誇った奥州藤原氏の3代目の当主。源義経を保護したことでも知られる。

実際には、そうした漆椀は、藤原秀衡とは直接の関係はないようだが、その名前が南部を代表する工芸品に名前を残しているという事実に、南部の人々が、藤原秀衡をどのようにみていたかがわかり、興味深い。

黒字の椀に、赤い漆でいろいろな絵柄が描かれている。鶴や松などの絵柄が目に付く。その形は、他の地方ではあまり見かけないもので、この地方の独自性が、よく表れている。

また、漆を使った蒔絵や、卵の殻を貼付けたもの、漆を革の上に塗った工芸品も展示されていて、漆が多くの工芸品に使われていることがよくわかる。

沖縄の漆椀は、真っ赤一色。しかし、その鮮やかな色合いは、強烈な印象を心に刻む。

南部の漆椀は、交易を通じて、アイヌの人々の間でも使われた。アイヌの人々は、そうした品々を、大切に使い、多くが今日まで伝えられた。動物や植物の文様が彫られた神具が展示されていた。

漆の木は、日本をはじめ、中国、韓国、東南アジアに生息している。中国や、タイ、ベトナムなどの漆の工芸品が展示されていた。いずれもやや小振りだが、東アジアや東南アジアの文化の共通性が感じられる。

漆の多様な用途、そしてその国際性も感じられ、漆の世界を満喫できた。