2012年10月27日土曜日

静物画の凄み〜『シャルダン展〜静寂の巨匠』より


シャルダンといえば、静物画の代名詞とも言える人物。しかし、どうしても、静物画というと、マイナーなイメージがどうしても抜けない。結果的に、シャルダンという人物に対しても、そうした印象を抱いてしまう。

三菱一号館美術館で開催された、『シャルダン展〜静寂の巨匠』では、そうしたイメージを覆すべく、ルーブル美術館を始めとする世界中の美術館からシャルダンの代表作が集結、静物画の凄みを感じさせる美術館となった。

シャルダンは、パリの職人の子供として生まれ、小さい頃から絵心があった。有名な画家の元に弟子入りし、フランドル絵画の影響を受けて、自分が、静物画を描くことに得意であることを発見、やがて、アカデミーからも認められるようになった。

シャルダンは、1つのテーマを、とことん突き詰めるタイプの人物だったようだ。同じ構図の作品が、何点か並んで展示されていた。

『すももの鉢と水差し』『死んだ野兎と獲物袋』『銅の大鍋と乳鉢』などの作品を見ていると、民衆が使っている、何気ない生活用品を、丹念に細かい筆さばきで描いているシャルダンの姿が思い浮かぶ。

また、シャルダンは、静物画だけではなく、民衆の何気ない日常を描いた風俗画家としても知られる。

シャルダンの風俗画の代表作である『食前の祈り』。幼い少女が、テーブルを前にして、食前の祈りを捧げている。母親が暖かい視線でそれを見つめている。

この作品もシャルダンは2つ描いていたようで、会場には、ルーブル美術館からとエルミタージュ美術館からの作品が展示されていた。

人間の感情を排した静物画と、情愛に溢れた風俗画。シャルダンという画家は、このまるで対照的なテーマを、実に見事に描き分けている。

シャルダンはその一方で、世渡りも実に上手だったようで、アカデミーの裏方的な仕事も黙々とこなしていた。

静物画を黙々と描いているシャルダンのイメージとは異なった人物像だが、中流階級出身の画家が、当時の社会を生き抜くためには、そうしたことが必要だったのだろう。

シャルダンの生きた時代は、いわゆるフランスのロココの時代。フラゴナールやプーシェといった華やかな宮廷生活を描いた画家達とは、まるで違ったテーマを描き続けたシャルダン。

彼の描いた、鍋やタマネギ、陶器の皿などを見ていると、何気ない身の回りにある物に後に隠された、小さな宇宙が、見え隠れしているように思われた。

2012年10月26日金曜日

出雲という不思議な土地について〜『出雲 聖地の至宝』展より

東京の国立博物館で、古事記編纂1300年を記念して、『出雲 聖地の至宝』展が開催された。

会場は、ちょうど中国関連の大きな展覧会が開催されていたこともあり、本館の空いたスペースを使って、第1会場と第2会場に分かれていた。

第1会場を入ったすぐの所に、古事記の写本が展示されていた。古事記は、1300年前に編纂されたといわれているが、実はその最も古い写本は、南北朝時代のもの。展示されていたのも、その南北朝時代のものだった。

つまり、編纂されてから、およそ600年後の写本しか残っていない。本当に、編纂時の内容が、その写本通りだったのかどうかは、誰にもわからない。

第1会場の一番奥には、この展覧会の目玉の一つである、出雲大社の10分の1の再現模型が展示されていた。言い伝えによれば、およそ50メートルもの高さがあったというが、その他の神社とは全く違う構造には、自然と”どうしてこんなに高い社を造ったのだろう?”という疑問がわいてくる。

そして、第1会場の中央には、鎌倉時代に作られた巨大な杉の柱、宇豆柱。2000年の発掘調査で発見された、その直径1メートル以上の3本の柱は、見るものを圧倒する。

この柱が発見されるまでは、50メートルの高さの社の信憑性は低かったが、この柱の発見で、俄然、その信憑性が高まった。

第2会場には、この展覧会のもう一つの目玉が展示されていた。それまでの考古学の常識を覆す、荒神谷遺跡の358本の銅剣と、加茂岩倉遺跡の39個の銅鐸の1970年代の発見。それまでは、近畿の銅鐸文化と九州の銅剣文化、などといわれていたが、その両方が出雲で発見された。

考古学も含めた、歴史という学問の限界を思い知らされる。いくら立派な理論を展開し、周りを説得していたとしても、実際の物が出てきてしまえば、理論は何の意味もなくなる。

会場には、荒神谷遺跡の銅剣と、加茂岩倉遺跡の銅鐸が、それぞれ何点かが展示されており、学者達の論争をあざ笑うかのように、”もの”としての、文字通りの存在感を、これでもかと主張しているようだった。

しかし、出雲という土地は不思議な土地だ。古事記に書かれている神話のうち、およそ3分の1は、大国主命や須佐之男命などの出雲神話からなっている。しかし、その割には、その後の歴史に中には大きな位置を占めてはいない。

また、同じ時代に作られた全国の風土記のうち、今日、完全な形で残っているのは、『出雲風土記』のみ。

そして、この荒神谷遺跡の銅剣と、加茂岩倉遺跡の銅鐸の発見。出雲大社の宇豆柱の発見・・・。

どうも、出雲という土地は、現代の私たちに、どうしても過去の自分たちの姿を、なんとかして伝えようとしている、そんな気がしてならない。偶然という言葉では、決して片付けられない、何ものかを感じてしまった。

2012年10月25日木曜日

遠くて近い国インドの美術


ホテルオークラの隣にある、大倉集古館は、時々、渋い展覧会を開催する。日印国交樹立60周年を記念して開かれた、『インドへの道 美術が繋いだ日本と印度』は、派手さはないが、インドという国について、新しい視点を与えてくれた。

多くの日本人にとっては、インドは近くて遠い国だ。隣の中国については、例えば歴史好きの人なら、歴代の王朝について、それなりの知識を持っている。

しかし、インドの歴史となると、仏教を保護したクシャナ朝や、近代のムガール朝ぐらいは知っていても、それ以外の王朝の名前は、なかなか出てこない。

会場には、日本には馴染みのない、10〜12世紀のパーラ朝の仏像や、13世紀のチョーラ朝の時代のヒンドゥー教のシバ神の像などが展示されていた。

パーラ朝は、日本ではあまり知られていないが、ベンガル地方に興った王朝で、仏教を深く信仰していた。日本ではメジャーではない、多羅菩薩の座像が何体も展示されていた。

この多羅菩薩とは、女性の菩薩で、インドや特にチベットではよく知られている。そのポーズはほとんど同じで、胡座をかいて座っており、右手の手のひらを上に向け、膝あたりにのせている。実に印象的なポーズだ。

ペルシャの影響の元に生まれたインドの細密画。ムガール朝の王や美しい王女、貴族達を描いたものが多かった。文字通り、細い筆先で、鮮やかな色使いで描かれており、1枚1枚に、思わず眼を近づけて、時間を忘れて、見入ってしまう。

インド繋がりということで、南宋の時代に、中国で出版された、『孫悟空』のネタ本になったといわれている『大唐三蔵取経詩話』という本が展示されていた。

これは、明恵上人で有名な、高山寺のもとに長くあった本だが、中国では、その後の戦乱などもあり、今では一冊も残っていないという。

展示コーナーの最後には、今村紫紅のインド旅行のスケッチ、下村観山の『維摩黙然』が展示されていた。

明治維新を迎えた日本では、岡倉天心らが、インドの詩人タゴールらと交流するなど、インドと日本がとても近づいた時期があった。

それからおよそ100年。日印国交樹立60周年を迎えて、インドと日本は、再び近づくチャンスを迎えているような気がする。

2012年10月21日日曜日

デルヴォーの夢の中の世界


ポール・デルヴォーというと、暗い夜の風景で、なぜかヌードの女性達と鉄道が描かれている、そうした不思議なイメージの絵画を描く画家、いわゆるシュールレアリストの画家、というイメージが強い。

府中市美術館で開催された”ポール・デルヴォー展 夢をめぐる旅”では、デルヴォーの初期の作品から、最晩年に至るまでの作品が展示され、その不思議な画家の、全貌をかいま見ることができた。

デルヴォーは、1897年にベルギーのリエージュで生まれ、幼くしてブルージュに転居し、人生の大半をその町で過ごした。

始めは、印象主義派の影響を受けた風景画などを主に描いていた。会場には、その頃の作品が、何点か展示されていた。川縁の風景、港の風景、森の中の風景など。

デルヴォーが、そのままの画風で絵を書き続けていたら、今日、私たちは、彼の名前を知ることはなかっただろう。

その後、キリコや、シュールレアリストの画家達の影響を受けて、次第に、あの不思議な絵画を描くようになっていった。

デルヴォーは、自分では、シュールレアリストの影響を受けたことを認めてはいたが、自分をシュールレアリストの画家とは思っていなかったという。

デルヴォーは、1つの作品を完成するまでに、多くのデッサンを描き、その構成を慎重に決めていた。他のシュールレアリスト達のように、即興的に描いたり、自動記述のような方法は用いなかった。

会場には、そうした多くのデッサンが展示されていた。同時に、その完成版の絵も飾られていたが、デッサンの構成と完成版では、人物の位置や背景が異なっている。そこには、デルヴォーによる様々な構想の跡が感じられた。

デルヴォーの絵画には、本人の夢の中の登場する様々なイメージがそのまま描かれている。同じ顔の女性(初恋の女性)、ヌードの女性、線路と鉄道、ギリシャ風の建築物などなど。

デルヴォーは、生涯にわたり、そうしたテーマを描き続けた。その意味では、幸せな人生だったのだろう。彼自身も、自分の絵画を見る人たちにも、その幸せを感じて欲しい、と語っていた。

デルヴォーの絵画を一度でも目にしたことがある人は、その強烈なイメージを心に焼き付ける。画家の名前は忘れても、そのイメージは深く心に残る。それは、デルヴォーの描くイメージが、単に、彼個人のものではなく、私たちに共通した、普遍的なイメージであるせいなのかも知れない。

デルヴォーは、1989年に、初恋の人で、その後奇跡的な再会を遂げて結婚したタムが、インフルエンザで亡くなった時に、筆を置き、その後、絵画を描くことがなかった。タムは、生涯にわたり、デルヴォーの創造力の源だった。

その最後の年に、描かれた絵画(「無題」)が会場に飾られていた。そこには、赤いベールをまとった女性が描かれている。すでに年老いて、タッチが乱れ、あのデルヴォーらしい絵画ではないが、そこには、明らかに、最愛の人、タムの姿が描かれていた。

2012年10月14日日曜日

イジスの撮影した世界


日本橋三越で開催された、イジス写真展―パリに見た夢―、を見た。パリで2010年に開催された大回顧展の巡回展。

寡聞にも、イジスというこの写真家のことは知らなかった。ロベール・ドアノー、アンリ・カルティエ=ブレッソンのことは知っていたが、彼らと同じ世代だという。

イジスは、1911年にリトアニアで生まれ、20代に画家を目指してパリに来て、その後写真家になり、第2時世界大戦後、フランス国籍を取得した。

狭い、日本橋三越の新館7階ギャラリーに、たくさんの特設の壁が作られ、そうした壁という壁に、イジスの写真が飾られていた。

イジスが写真家になるきっかけにもなった、1944年に撮影した、レジスタンスの兵士の写真。無名の人々が、イジスの写真の中では、ヒーローになっている。

戦後間もない1940年代後半のパリは、まだ貧しかった。今ではオシャレの代名詞でもあるセーヌ川のほとりには、浮浪者が寝そべっていた。

足が悪くなり、歩けなくなった有名な作家コレットのために、イジスが撮影した様々な風景写真。風景自体は、決してなんということはないが、そこには、世界の秘密が隠されているような、神秘的な雰囲気が漂っている。

1952−53年に撮影されたロンドンの写真。そこには、それまで、誰も見たことがない、ロンドンの風景が、映されている。

イジスは、同じユダヤ人ということもあり、同じく若くしてパリに来たシャガールとは友人だった。そのシャガールが、パリのオペラ座の天井画を描く様子が、イジスによって撮影されていた。それは、貴重な歴史の記録だ。

サーカスの写真。サーカス団の人々の練習風景、化粧をするピエロ、象などの動物達、そして、サーカスを見て歓喜する人々の顔。イジスの写真には、サーカスの全てが映されていた。

この日から、私にとって、イジスという写真家は、忘れられない存在となった。

リヒテンシュタインからバロックの世界がやってきた


リヒテンシュタインは、スイスとオーストリアの国境に位置し、小豆島ほどの広さに、30,000人ほどの人が暮らす、小さな立憲君主国。1719年に神聖ローマ帝国から自治権を与えられ、その後、神聖ローマ帝国の崩壊とともに独立国になった。

歴代の公爵が、代々収集してきた美術コレクションは、ヨーロッパ屈指のコレクションとして知られていたが、第二次大戦後は、最近まで、外部に公開されることは無かったという。

日本で初めての公開となった今回の展覧会の最大の目玉は、ルーベンスの作品。30点ほど所蔵するという作品のうち、10点が展示されていた。

会場の一番奥のスペースは、まさしく”ルーベンスの部屋”だった。

小さなものでは、縦40cm横30cmの自分の娘を描いた『クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像』から、大きなものでは、縦3m横4mの『占いの結果を問うデキウス・ムス—デキウス・ムスの連作より』まで、テーマで言えば、『キリスト哀悼』のキリスト像から、イタリアを訪れた際に描いたカラバッジオ風の絵、動物の絵などに至るまで、いろいろなパターンのルーベンス作品が楽しめた。

特に、壁の四方を取り囲むように展示された、2m〜4m級の巨大な絵画を見せられると、ルーベンスという個人の作品というより、ルーベンス工房の作品という印象が強く、画家としてのルーベンスの偉大さは確かだが、さらに工房を経営する能力や、そうした仕事と同時に、外交官としても活躍していたということに、改めてこの人物の”巨大さ”を実感した。

この展覧会で、ルーベンスと並ぶ、もうひとつの目玉が”バロックの間”。フェルツベルグ城の豪華な室内を、様々なバロックの作品で再現した、大きな広間が展覧会場の一角に作られていた。

絵画は勿論のこと、タペストリー、彫刻、机、イス、チェスト、中国や日本の磁器など、バロック時代の作品が、その広間にサロンを再現するかのように展示されている様子は、圧巻だった。

ヨーロッパのリヒテンシュタインから、アジアの片隅に、バロックの世界がやってきた、とでもいう印象だろうか。

バロック期以外でも、ところどころに、眼を引く作品が展示されていた。

若い頃のラファエロの『男の肖像』。明らかに、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナリザ』に影響された作品。一人の若い男の半身の肖像画、背景に、遠景の風景画描かれている。

クリストファーノ・アッローリの『ホロフェルネスの首を持つユディット』。美しい女性が、刀を片手に、もう片方の手に、血が滴る男の首を持つ、というポピュラーな構図。17世紀のフィレンツェの画家による作品。いわゆる”怖い絵”だ。

そのユディットの表情が、なぜか、女優の沢尻エリカにそっくりで、そのことが、この絵画を、更に怖い絵にしている。

ピーテル・ブリューゲルの『死の勝利』、『ベツレヘムの人口調査』の絵を見つけた時は、思わず声を失ったが、よくよく見ると、ぞれぞれが、息子のヤン・ブリューゲル2世、ピーテル・ブリューゲル2世による模写。

しかし、よっぽどの専門家でもなければ、それが本物かどうかの判断は難しいだろう。と思えるほど、実に細かい部分までが、忠実に模写されている。中心が無く、多くの人物が細かい筆使いで描かれ、それぞれのシーンが、時に滑稽で、時に不思議。ブリューゲルの絵画の前では、時間がたつのを忘れてしまう。

私の大好きな画家、エリザベート・ヴィジェ=ルブランのリヒテンシュタイン公爵夫人を描いた肖像画。婦人が素足で、風に乗って空を飛んでいるという幻想的な作品。

ルブランは、フランス革命の混乱を避け、パリを離れ、ウィーンに逃れてきた時にこの絵画を描いた。婦人が文字通り天使のように見え、この絵を描いたというが、関係者は、夫人が素足で描かれていることに、大きなショックを受けたという。

ビーダーマイヤー様式の画家の一人、フリードリヒ・フォン・アメリングによる『夢に浸って』。一人の少女が、本を読んで、本の中の夢の世界に浸っている、その表情を、少女の可憐さとともに、見事に表現した一枚。

この展覧会の面白さは、絵画だけではなく、工芸作品も展示されていたことだった。

中でも白眉は、マティアス・ラウフミラーのよる象牙で作られた『豪華なジョッキ』。17世紀の作品で、サビニの女の略奪を、ジョッキ上に表現した作品。とにかく、その細かい象牙の彫刻に眼を奪われる。取っ手の部分にまで、植物の蔓やヘビなどが彫られていて、とても、このジョッキでビールを飲む気にはなれそうもない。

また、色とりどりの石を使った象嵌のチェスト。細かい石を組み合わせて、美しい風景画を作り出している。こちらも17世紀の作品で、いずれも、バロック芸術を代表する作品。

いやあ、とにかく、こってりとした、濃いソースの、ヨーロッパの料理を、たらふく味わった、という印象の展覧会。ごちそうさまでした。

2012年10月10日水曜日

日本の70年代展にて自らの思い出と出会う


埼玉県立近代美術館で開催された、日本の70年代 1968−1982年展、を見てきた。

ふつう、展覧会を見る時は、第三者的な視点で、展示物を見るが、今回は、テーマが、自分の幼い頃に重なる、ということもあり、会場を回りながら、あちこちで、自分の思い出とも出会いながらの、不思議な感覚での、展覧会となった。

展示物の多くが、次の3人の作品で占めらていた。粟津潔、横尾忠則、そして赤瀬川原平の3人。日本の70年代は、この3人の時代でもあった。

個人的には、ピンク色や黄色といった原色を使った、平坦な、横尾忠則のポスターが、強烈な印象として、記憶に刻まれている。

1968年は、世界的な学生運動の年ということで、納得がいくが、1982年という年は、開催者の恣意的な意図を感じた。この1982年は、この埼玉県立近代美術館が開館した年だった。

展示会場の最後のスペースに、やや謙遜気味に、そのスケッチや設計図などが展示されていた。設計者は、この時代、メタボリズムで一世を風靡した黒川紀章。

黒川紀章に関しては、そのメタボリズム建築の代表的な作品ともいえる、中銀カプセルタワービルの設計図や模型なども展示されていた。

昔、友人がそこに住んでいたことがあり、このビルを訪れたことがある。まるで宇宙船のような室内に、未来的な雰囲気を感じたが、ハッキリ言って、住み良い場所とは、思えなかった記憶がある。

アンアン、ブルータス、ぴあなど、未だに続いている、個性的な雑誌も、70年代に創刊された。

会場には、年を重ねた人や、子供や学生まで、実に幅広い年団の人々が、それぞれの思いを胸に、展示品に見入っていた。

おそらく、展示品の1つ1つは、それだけでは、単なる個人の思い出の品にすぎない。しかし、それが、こうして1つのテーマの元に集められると、多くの人の関心を集める、興味深い展覧会が企画できる。

この展覧会は、まさに、企画の勝利であった。

2012年10月7日日曜日

ベルギーの巨匠アンソールの全貌


ベルギーの画家の中では、ルーベンスについで最も評価が高い、といわれるジェームズ・アンソールは、日本ではまだあまりメジャーな画家とは言えない。

そのアンソールの生涯にわたる作品を概観できる展覧会が、新宿の損保ジャパン東郷青児美術館で開催された。アントワープ国立美術館からの作品群で、およそ1年間をかけて、日本各地を巡回するという大規模な企画。

アンソールの画風は、大きく2つにわけられる。1860年生まれのアンソールは、1890年くらいまでは、過去の偉大なフランドル画家達や、フランスの印象派の影響を受けて、風景画や人物画を描いていた。

タッチは粗く、色は、青い空や海を描く際も、くすんだ色で描いており、このままのスタイルを生涯貫いたなら、今日、アンソールはこれほど有名な画家にはならなかっただろう。

1890年頃から、その画風は一変する。この展覧会のポスターに使われるている、グロテスクな仮面や、骸骨を描く画風に変わっていった。

アンソールの作品で、最も印象に残ったのは、『悲しみの人』という作品。キリストの顔がアップになっているが、頭には茨の冠を被り、顔は血だらけになっている。実にグロテスクな絵画。

そうしたグロテスクな絵画の背景には、ヒエロニムス・ボスやピーテル・ブリューゲルといった同じ地域の先人達による、不思議な作品群があった。アンソールは、そうした過去の偉大な画家達の伝統を引き継いで、現代に置けるベルギーを代表する画家になったのだ。

会場には、ピーテル・ブリューゲル(子)による、フランドル地方の諺をそのまま絵にした絵も展示され、テニールス(子)の『聖アントニウスの誘惑』には、空飛ぶカエルや魚などの、不思議な生き物達が描かれていた。

アンソールは、当時のヨーロッパで流行していたジャポニズムにも影響を受けた。父親が貿易商を営み、中国や日本の物産を扱っていたのも、関係していたのかもしれない。北斎漫画を模写したと思われる、小さなデッサンが、会場に展示されていた。

日本では、その全貌があまりよく知られていないアンソール。この展覧会では、そのアンソールの作風を、他の画家達との作品と見比べながら、たっぷりと味わえる、貴重な機会だった。

御伽草子の絵巻物に真実を見る


室町時代のころから江戸時代にかけて作り出された、『御伽草子』に関する展覧会が、サントリー美術館で開催された。

『御伽草子』は、小さな物語の集まりで、300編ほど作成され、そのうち今日まで残っているのは、100編ほど、といわれている。

なかでも『一寸法師』『浦島太郎』などは、現代でもよく知られている。

『御伽草子』には、絵と文章で構成されているのが普通で、会場には、南北朝時代から江戸時代にかけての、様々な『御伽草子』が展示されていた。

絵巻物は、左から右に、物語の中のところどころの場面が描かれる。それは、まさしく現代のアニメに相当する。今日、世界的に知られたアニメ大国ジャパンには、そうした歴史的な蓄積があったのだ。

源頼光が、鬼である酒呑童子を退治する『酒呑童子』。クライマックスの酒呑童子が退治されるシーン。切られた首が、宙を飛び、頼光の頭にかみつくシーン。そのグロテスクなイメージは、その後、何度も何度も、同じ構図で描かれることになった。

そうした絵巻物は、江戸時代は安価な出版物となり、庶民も楽しんだが、室町時代は、まだ天皇や貴族が楽しむものだった。実に素朴な、素人絵師の手によるような作品もあれば、土佐派の本格的な絵師によるものもある。

南北朝時代の、北朝側の後光厳天皇が描いたと伝わる、『善教房絵巻』。善教房という坊主が、念仏による成仏をいろいろな人に説くが、いつも説得に失敗する、という話。善教房が、いわばトリックスターのように描かれている。

室町時代に描かれた『しぐれ絵巻』。清水寺を舞台にした悲恋物語だが、この絵に描かれた人物の眼の表現が凄い。日本人には珍しい、切れ長の眼で、眼の玉も真ん丸に描かれる。現代の少女マンガの登場人物達のようなその眼の表現に、文字通り、眼が釘付けになった。

『鳥獣戯画』以来の伝統的な、動物が人間と同じ格好をして登場する絵巻の数々。ネズミ、サル、スズメなど、身近な愛らしい動物達を主人公にした物語も『御伽草子』には多い。

捨てられた小道具が、その恨みから化物となり、人々に襲いかかるという『付喪神絵巻』。小道具に、眼や鼻が描かれている様子は、実にユーモラス。長年使い込んだ道具に、心があると考える発想の豊かさは、現代人に何事かを問いかけている。

室町時代の『百鬼夜行絵巻』。江戸時代にも何度もコピーされた、その化物たちのイメージは、一度見たら忘れない、強烈な印象を心に残す。戦乱に明け暮れる、室町時代の京都の夜に、夜ごと現れるという百鬼夜行。何もない闇の中に、当時の人々は、百鬼夜行の姿を見ていたのだろう。

『御伽草子』に描かれた物語の一つ一つは、たわいない作り話のように思えるが、実はそこには、歴史書には決して語られない、もうひとつ別の真実が語られているように思えた。

2012年10月6日土曜日

近江地方の宗教世界に遊ぶ〜近江路の神と仏・名宝展


三井美術館で開催された、琵琶湖をめぐる 近江路の神と仏 名宝展、を見た。

近江といえば、天智天皇の近江京、額田王の”あかねさす・・・”の歌の舞台になった蒲生野など、古くから、様々な分野で、この国の歴史に、足跡を残している。

会場には、近江地方のお寺などから、奈良時代から、室町時代にかけての仏像、仏画、仏具など、普段はあまり目にする機会のない品々が、一同に展示され、近江地方の宗教世界が、そこに再現されているような、不思議な雰囲気につつまれていた。

大津市、葛川明王院の千手観音立像。十二世紀の平安時代の作品。沢山ある手の一つ一つが、小さな仏像、剣、仏具、縄など、いろいろな品を持っている。造形の細かさに眼を引かれる。

快慶作、大津市、石山寺の大日如来像。同じ十二世紀だが、こちらは鎌倉時代。快慶がまだ無名な頃の作品。それまで展示されていた平安時代までの仏像と、鎌倉時代の仏像とは、明らかにその表情が変わる。

それまでは、仏達は、遠い世界の存在として表現されていたが、鎌倉時代の仏像になると、まるで、仏が目の前に現れたかのような、リアルさを持って表現されている。仏も、一人の人間として、その個性が、いかんなく表現されている。その表情から、この仏の性格も読み取れそうだ。

大津市、聖衆来迎寺の観経変相図。十四世紀の南北朝時代の作品。浄土三部経のうちの『観無量寿経』に描かれた浄土の世界を、絵画で再現した内容。阿弥陀三尊を中心に、豪華な宮殿が描かれ、その中に、それこそ無数の仏が描かれている。

時代の変わり目の変換期に、人々は、お経を聞き、念仏を唱え、こうした浄土の絵を見て、やがて自分もそこを訪れたいという強い思いを抱いたのだろう。

そうした近江地方の仏像や仏画を見ているうちに、またいつか、近江を訪れたい気持ちになった。