2012年5月27日日曜日

フラワースケープ - 画家たちと旅する花の世界


DIC川村記念美術館で開催されていた、”フラワースケープ−画家たちと旅する花の世界”展を見た。

様々な画家たちが作り上げた”花の描かれた絵画空間(フラワースケープ)”について、9つのセクションに分けて展示する、という、実に興味深い展覧会だった。

画家たちが描いた花は、もちろん、”花”ではない。それは、カンバスの上に、絵の具で描かれたものにすぎない。ただ、その物から、私たちが”花”を連想する場合、私たちは、それを、花の絵と考えるだけだ。

この展覧会を見て、そんな、哲学的なことを、思わず考えてしまった。

セクション1にあった、アンリ・ル・シダネルの3つの絵画。街角の風景が2つ。森の中で敷物を広げられバスケットやワインの瓶が描かれている。いずれも、人の姿は全く描かれてはいない。どこか、神秘的な雰囲気を漂わせた、不思議な作品。

セクション4では、”仮想コレクターF氏の部屋”と題して、絵のすぐ近くには、作者や題名などのプレートを置かず、花の絵画の歴史を辿る、というユニークな企画の展示がされていた。

ファンタン=ラトゥール、モネ、アンリ・ルソー、キスリングらの作品が並んでいた。プレートを見なくても誰の絵かわかる場合と、そうでない場合とがある。

セクション6では、この展覧会の目玉の1つ、野中ユリの作品が展示されていた。瀧口修造、澁澤龍彦の本の幻想的な挿画で知られる。コラージュをベースに展開される独特な世界。その中でも、花は重要なモチーフになっている。

セクション9では、もうひとつの目玉、有元利夫の作品が展示されていた。幻想的で、どこかにありそうで、どこにもない、にもかかわらず、とても身近に感じられる不思議な世界。その世界に中には、花は宙を漂っていたり、女性の手の中に収まっていたりしている。

この展覧会のチラシでも使われていたジョージア・オキーフの「タチアオイの白と緑ーベダナール山の見える」。オキーフの作品は、輪郭線をハッキリと描いている絵画が心に残っていたが、この作品は、ぼかしを使った、不思議で味わいのある作品だった。

アンドレ・ボーシャンの2つの作品。「花と木」と「花」。いずれも、画面の中央に大きく色とりどりの花が描かれ、背景に明るい風景が描かれている。素朴派のボーシャンは、花の1つ1つ、花びらの1枚1枚を丹念に描いている。おもわず、微笑んでしまう。

セクション7は、杉浦非水の「非水百花譜」。あじさい、やまゆり、つばき、なでしこ、さくら、などの花々が、1枚1枚丹念に描かれている。これ以外にも、私が知らない花々の絵が展示されていて、我ながら、あまり花の名前を知らないことにあきれかえってしまった。

この展覧会を見る前と後では、花の絵を見る見方が、確実に変わっているような気がする。そんな風に思わせる、実に魅力的な展覧会だった。

2012年5月26日土曜日

絵筆を持たない芸術家の作品〜五浦と岡倉天心の遺産展より

日本橋の高島屋で開催された、五浦と岡倉天心の遺産展、を見た。

昨年の東日本大震災による津波で、茨城県の五浦にあった六角堂は流されてしまった。それがこのたび再建され、その記念として、この展覧会が企画された。

岡倉天心の肖像画、彫刻、ボストンでの暮らしに使っていた日常品、手紙類、あるいは、横山大観を始めとする日本美術院のメンバーの作品などが展示されていた。

百貨店の展覧会ということで、少し軽い気持ちで訪れたが、岡倉天心という人物の魅力に、心の随まで捉われてしまい、期せずして、心に深く印象の残る、忘れがたい展覧会となった。

岡倉天心は、東京美術院の校長を辞し、日本美術院を創設したが、次第に運営に行き詰まり、9ヶ月のインド旅行の後、心機一転、この五浦に移り、弟子の横山大観、菱田春草、下村観山らとともに、日々、芸術活動に明け暮れた。

彼らは、五浦の海沿いの広大な土地に、それぞれ大きな家屋を建てた。塩出英雄の『五浦』は、まさにそうした風景を描いている。それは、まるで芸術家のユートピアのように見える。

横山大観と下村観山による『竹の図』。大観は左手に、まっすぐな竹を、観山は右手に、丸く曲がった竹を、それぞれ、金箔の地の上に、墨の黒い色の濃淡だけで描いている。ただただ美しい。ずっと、この絵を見ていたくなる。

岡倉天心は、ボストンでボストン美術館の東洋美術のキュレーターをしている時、『白狐』というオペラを構想していた。その原稿も展示されていた。

弟子の一人が、岡倉天心のことを、”絵筆を持たない芸術家”と呼んだという。その見えない絵筆で描かれた岡倉天心の作品は、今日の私たちをも、魅了し続けている。

2012年5月22日火曜日

シャルロット・ペリアンと日本


目黒美術館で開催された、『シャルロット・ペリアンと日本』を見た。

ペリアンは、ル・コルビジェの元で、インテリアのデザインをしていた。同じくコルビジェの元にいた板倉準三の誘いで、1940年、第2次世界大戦中の日本を訪れた。

日本を訪れる前から、岡倉天心の『茶の本』などで、日本に興味を持っていたが、実際に訪れると、その文化に深い興味を持ち、自らのデザインにも、その要素を取り入れた。

展覧会には、ペリアンの作品はもとより、日本を訪れた際の手記やノートなどの資料、日本の役所の彼女の受け入れのための公文書、ペリアンを紹介した当時の新聞や雑誌など、実に多面的な展示品が並んでいた。

それにしても、戦時中に日本の敵国だった連合国のフランスから日本を訪れ、およそ2年ものあいだ日本に滞在し、日本の各地を訪れていた、ということに、素直に驚きを感じた。

建築家との交流はもとより、民藝活動の柳宗悦らとも交流し、柳にも大きな影響を与えたようだ。

勿論、戦後も、彼女がなくなるまで、日本との関係は続いた。ペリアンは、パリの日本大使館、日本におけるエア・フランスのオフィスの設計を担当した。そのシンプルなデザインには、確かに”和”を強く感じる。

会場には、ペリアンが来日中に企画し、1941年に高島屋で開催された「選択 伝統 創造」展が、再現されていた。その展覧会では、ペリアンが日本滞在中に発見した日本の工芸品や、それらに影響されたペリアンのインテリアなどが紹介された。

今まで、寡聞にもその存在を全く知らなかった。しかし、今後、シャルロット・ペリアンの名前を、私は決して忘れることはないであろう。

2012年5月20日日曜日

歴史とは何かを問う〜インカ帝国展

上野の国立科学博物館で開催されていた、『マチュピチュ「発見」100年 インカ帝国展』を見た。

様々なメディアで紹介されていたせいか、平日にも関わらず、会場には多くの人が訪れ、1部の展示品の前には、多くの人だかりができていた。

インカ帝国の実像は、実は良くわかっていない。インカの人々は、文字を使っていなかったし、現代人が考えるような歴史という考え方を持っていなかったようで、その”歴史”は、征服したスペイン人の記録によるという。まさに、謎の帝国だ。

展示品は、儀礼用の器具、衣類品、ミイラ、生活用具などなど。

リャマの形をした石製儀礼用容器。リャマの姿を抽象化して表現しており、現代的なデザイン。他の展示品とは、全く違った存在感を持っていた。

インカでは、トウモロコシが主な産物で、食用というよりは、そこから酒を造るのが、おもな使い方だったようだ。トウモロコシを象った、酒器などが展示されていた。

インカ帝国は、その領土を貫く広大な道を作った。スペイン人によれば、その道は規模においても、その用途においても、ローマの道を凌ぐという。

その道を通じてやりとりされたのが、キープと呼ばれる縄の結び目を使った記録装置。主に数字などを表し、これで、帝国の各地に様々な情報を伝達した。

若い女性のミイラ。死後、ミイラにされたのだが、まるで、顔を覆って叫び声を上げているかのような姿勢でミイラになっている。ムンクの「叫び」を連想させる。

器に描かれている、動物や植物などの模様。そのいくつかは、ナスカの地上絵の模様ととても似通っていた。

帝国としてのインカは滅んでしまった。現代の歴史家たちは、スペイン人たちが残した記録や、考古学的な資料に基づいて、その真の姿を解明しようとしている。会場には、そうした成果が、非常にわかりやすく説明されていた。

しかし、そのような現代的な視点で再現したインカ帝国は、本当のインカ帝国の姿なのだろうか?幻のままのインカ帝国の方が、本当の姿なのかもしれない。

曾我蕭白を再び浴びる:曾我蕭白ショック!! 曾我蕭白と京の画家たち

再び、千葉市美術館の『曾我蕭白ショック!! 曾我蕭白と京の画家たち』展を訪れた。ほとんどの展示作品が、期間中盤で展示替えになったためだ。

後半の方が、有名な作品が多いせいだろうか、以前より、多くの人が訪れていた。

期間の後半の目玉は、「群仙図屏風」。縦1.8メートル、横3.8メートルの大作。蕭白の絵画は、墨で書かれたモノクロの作品が多いが、これは、赤、青、黄といった原色のカラーが使われ、蕭白の中でも異彩を放っている。

蕭白35才の時に描かれ、蕭白の代表作とされる。よく見ると、人物や背景の表現が、他の作品と共通する部分が多い。その意味では、蕭白の画法が集約された作品ということができる。

まるで正気を失い、別な世界を漂っているような目をしている仙人。美しいのだが、情愛がまったくかんじられない女性。竜とそれが巻き起こす竜巻などなど。まさに、蕭白ワールドだ。

「鳥獣人物図押絵貼屏風」。水墨の筆で、文字を書いたように見える太い線を、人物や馬などの輪郭線に、実に上手く使っている。抽象絵画のようにも見える。

「楼閣山水図(月夜山水図)屏風」。六曲一双の金色の背景の屏風に、雪舟の影響が明らかな山水図が展開されている。そこには、奇妙な仙人も、狂女も、渦巻きも登場しない。ただただ、自然の中に、豆粒のような人間がいるだけだ。これもまた、蕭白の一面ではある。

長沢蘆雪は、私の好きな画家だ。「花鳥蟲獣図鑑」。この絵は、別な画家との共作だが、芦雪はこの絵の中に、子犬を描いている。私は、この絵に描かれている子犬ほど愛くるしい子犬の絵を、他に知らない。

それにしても、前期と後期を通じて、60点ほどの蕭白の作品を見たことになる。しばらくは、その世界から、逃れたくても、逃れられそうもない。

2012年5月13日日曜日

ルオーの全体像を概観する〜ジョルジュ・ルオー 名画の謎展

汐留ミュージアムで開催された、『ジョルジュ・ルオー 名画の謎』展を見た。

ルオーがギュスターブ・モローの元で学んでいた時代の作品から、『ミセレーレ』に代表される銅版画、サーカスの作品群、宗教画、静物画など、晩年の作品にいたるまで、ルオーの全体像を概観できる、貴重な展覧会だった。

「人物のいる風景」。モローの元で学んでいた20代の頃の作品。後年のルオーとは全く違った、モローの絵画のような幻想的な風景画。三日月の夜、暗い森、池の中で数人の人物が、祈りを捧げているように見える。神秘的で、印象的な作品。

1920年代後半から30年代にかけて描かれた聖書を題材とした小さな風景画群。キリストと弟子風の人物が、青を基調とした風景の中に描かれている。いずれも、シンプルな色と線で描かれている。余計なものすべてを削ぎ落しながら、しかも、全てが描かれているような、ルオー独特の世界観が展開されている。

ルオーの人物画というと、太い線で輪郭された顔の絵が思い浮かぶが、サーカスの人々を描いた作品やユビュ王の銅版画では、異様に長く、しかも不釣り合いな手の描写が見られ、面白かった。

モローの元で学ぶ画家たちの集合写真があった。ルオーは、最前列のしかもど真ん中で、彼らのリーダー的な存在として映っていた。マチスもまたモローの元で学んでいたが、マチスは写真の左奥の方で、あのディレッタントな雰囲気で、斜めにポーズを取っている。

ルオーは、モローの死後、遺言によりモロー美術館の初代の館長に就任したという。モローとルオーの関係を物語っているエピソードだ。

会場の所々に、ルオーの作品をわかりやすく解説するコーナーがあった。それらは、子供向けに作られたもののようだったが、私が訪れていた際に、子供は一人もいず、すべて大人の来場者であった。

おそらくは、親子で美術館を訪れてほしい、という美術館の意図によるものだろう。しかし、せっかく、世界で唯一の、ルオーの名前を冠する美術館なのだから、大人をも満足させるような、より専門的な解説があってもいいのではないか、と感じた。

汐留ミュージアムの『ジョルジュ・ルオー 名画の謎』展のページ

2012年5月12日土曜日

再会した二つの光琳の燕子花〜KORIN展から


根津美術館で開催された『特別展 KORIN展 国宝「燕子花図」とメトロポリタン美術館蔵「八つ橋図」』。

尾形光琳のデザイナーとしてのセンスが最も発揮された作品ともいえる、根津美術館蔵「燕子花図」とメトロポリタン美術館蔵「八つ橋図」が、根津美術館で再会した。

昨年、開催される予定だったが、震災の影響で今年で延期された。天皇陛下も訪れたという展示会。やはり、平日にも関わらず、多くの人が訪れていた。

会場の真ん中に、二つの大作が並べられていた。「燕子花図」の方は、文字通り、燕子花しか描かれていない。しかし、金箔の余白と、連なって咲き誇っている燕子花のバランスが絶妙だ。

一方の「八つ橋図」には、燕子花の間を縫うように、三河の有名な名所であった八つ橋が描かれている。燕子花が、ある程度リアルに描かれているのに比べ、橋の方はシンプルに描かれている。また、橋の上は、濡れていることを表現するためか、ぼかしの技法が使われている。

近寄ったり、遠くから全体を見たり、いろいろな楽しみ方ができる。

この二つの絵は、『伊勢物語』の第九段「東下り」の中の、三河国の八つ橋のほとりで、在原業平が、かきつばた、という言葉を使って、”からころもきつつなれにしつましあれば はるばるきぬるたびをしぞおもう”という和歌を詠む、というエピソードに基づいている。

光琳は、おそらく、いずれの絵においても、この絵を見る人が、この和歌を思い出すように演出したかったのだろう。

特に、「八つ橋図」の方は、描かれている燕子花が、大きく3つのグループに分かれていること。橋が、7つしかし描かれていないことなどから、そうしたことが窺える。

他にも、何点か、尾形光琳の作品が展示されていた。「白楽天図屏風」は、その独特の波の表現と、波に揺れる船を大胆に斜めに描いた点が、特に印象に強く残った。

光琳から、およそ100年後に活躍した酒井抱一の「青楓朱楓図屏風」。一対の屏風絵の中に、春の青々とした楓と、秋の真っ赤に紅葉した楓が、繊細な筆使いで描かれていた。

光琳の世界にどっぷりつかれた、そんな展覧会だった。

根津美術館のホームページ

2012年5月5日土曜日

古代ヨーロッパへの時間旅行〜ユベール・ロベール 時間の庭展より


上野の国立西洋美術館で開催されていた『ユベール・ロベール 時間の庭』展を見た。

フランス、ローヌ=アルプ地方にある、ヴァランス美術館の収蔵品を中心にした展覧会で、ユベール・ロベールの他、クロード・ロラン、フランソワ・プーシェ、ジャン=オノレ・フラゴナールらのロココの作家たちの作品で構成されていた。

ユベール・ロベールは、1773年にフランスの公爵の侍従の子として生まれ、公爵がイタリアに大使となって赴任したさいに同行し、その地で11年を過ごし、ローマの遺跡や、ルネサンスの庭園などを巡り、そこで多くのデッサンを描いた。

フランスに帰国後は、王立アカデミーに所属し、イタリア赴任時代に描いたローマの廃墟や庭園を描く画家として、名を知れれた。

ロベールが描いた当時のローマの風景を見ると、現在のものとはまるで違っている。ローマは、文字通り廃墟のようで、遺跡の周りはそれこそ、草が茫々。民衆の様子も、決して豊かなようには見えず、足は裸足だ。

ロベールの特徴は、ローマの凱旋門や、サン・ピエトロ広場のような壮大な風景を描く際にも、その中に人々の姿を描いていることだ。貴族風な人もいれば、貧しい民衆の姿も見られる。それが、ロベールの絵に、とても優しく、柔らかい印象を与えている。

「サン・ピエトロ広場の列柱」。画面の中央に、列柱の一本が大きく描かれている。大胆な構図だ。日本の浮世絵のようなその構図だが、まだヨーロッパには紹介されていない時代。ヨーロッパにも、こうした構図の伝統があったことが、この絵から読み取れる。

ジャン=オノレ・フラゴナールの「丘を下る羊の群れ」。フラゴナールは、ロベールと同じ時期にイタリアを訪れ、同じ屋敷に滞在し、交遊もあったという。この作品は、フラゴナールらしい、繊細にして鮮やかな筆さばきで、農村の牧歌的な風景を見事に切り取っている。

フランソワ・プーシェの「石橋のある風景」と「水車のある風景」。セットで描かれたと思われる作品。構図も、左右合わせてみように構想されており、続き絵のようにも見える。こちらも、プーシェの細かい筆使いに見とれてしまう。画面のあちらこちらに飛んでいる白い鳥が、ほぼワンタッチの筆使いで描かれている。

また、同時に、18世紀を代表するイタリアの版画家、ジョバンニ・バッティスタ・ピラネージによる版画の連作『牢獄』の展示も行われていた。

まるで、スピルバーグのインディ・ジョーンズ・シリーズの1場面に登場するような、ダイナミックで壮大な、牢獄の内部の様子が、エッチングの細かい線によって描かれていて、印象に残る連作だった。

国立西洋美術館のホームページ

2012年5月4日金曜日

大名の暮らしを窺う〜毛利家の至宝展より


サントリー美術館で開催された『毛利家の至宝 大名文化の精粋』展を見た。

サントリー美術館のある、いわゆる東京ミッドタウンは、三島由紀夫が割腹自殺を遂げた自衛隊跡地として有名だが、江戸時代は、毛利家の屋敷跡だった。

サントリー美術館の移転5周年を記念したこの展覧会は、そのゆかりの毛利博物館の、毛利家ゆかりのお宝が、多数展示されていた。

この展覧会の目玉は、雪舟の「四季山水図(山水長巻)」。16メートルにわたる長い長い作品が、すべて展示されていた。雪舟の最高傑作の1つとされるこの作品を、端からじっくりと眺められるのは、まさに至福の時間だった。

この作品は、もともと、雪舟を庇護していた大内家のものだったが、毛利氏が大内氏を滅ぼし、その後、手に入れたもの。中国地方の権力の移り変わりをも反映した作品となっている。

毛利家は、戦国時代から、幕末に渡るまで、およそ300年間にわたり続いていたというだけあり、歴史上重要な資料も多く残っている。

秀吉が、死の間際に、徳川家康、前田利家ら当時の五大老に、幼い秀頼を助けるように懇願した有名な自筆の書状。五大老の一人、毛利輝元に送られたものが展示されていた。時代を作った権力者の悲痛な願いは、ついに果たされず、秀頼は、その五大老の一人、徳川家康によって、大阪城の戦火の中で露と消えた。

毛利家といえば、三本の矢の教訓で有名だが、その話の元になった、毛利元就が3人の息子に宛てた書状も展示されていた。

毛利家の殿様は、代々、絵画や和歌に通じていた。毛利家の初代元就の子、2代目の隆元の2つの水墨画が展示されていた。その卓越した筆さばきは、趣味のレベルを超えている。

現存する、最も古い、「古今和歌集」の写本、高野切。全20巻のうち、現存するのはわずか3巻。そのうちの1巻、第8巻が毛利家に伝わっている。源兼行が書いたといわれるが、そのやわらかいひらがなには、ただただ、見とれてしまう。

その他にも、俵屋宗達、狩野探幽、狩野芳崖、円山応挙、頼山陽など、錚々たる作家の作品をはじめ、茶器、着物など、が展示されていた。

これぞ、大名文化、という印象の展覧会であった。

毛利家は、幕末の倒幕活動で中心的な役割を果たし、明治政府においても、伊藤博文をはじめ、数多くの政治家や閣僚を輩出した。その意味では、歴史の勝者だった。だからこそ、これだけの名品が今も残っているのだろう。歴史の敗者は、そうした宝を失わざるを得なかったのだろう。

2012年5月3日木曜日

岩崎財閥が誇る珠玉の日本絵画を味わう〜東洋絵画の精華展より


静嘉堂文庫美術館で開催されていた、『東洋絵画の精華 珠玉の日本絵画コレクション』展を見た。

この展覧会の目玉は、『平治物語絵巻 信西巻』。時期を同じくして、ボストン美術館の『三条殿夜討巻』が国立博物館で展示されていることから、それとのタイアップ企画として、静嘉堂文庫美術館でも、この絵巻が展示された。

私が訪れた際は、三段ある絵巻のうち、第二段の、信西が切腹し、その首が信頼・義朝側によって、都に持ち帰られるまでを描いている。

絵巻は、会場を入ったすぐのところに展示されていた。美術館の場所は、世田谷区の奥まったところにあるため、訪れる人も少ない。ゆっくりと、13世紀の貴重な絵巻を目にすることができた。

まずは、信西が伊勢の山中で、もはや逃げられないと観念し、切腹して果てる場面。それを従者が敵に見つからぬように土に埋めている。切腹で腹部が朱に染まっている。その朱の色が、今でも色鮮やかであることに驚く。

続いて、従者が埋めたにもかかわらず、信西の死骸が、信頼・義朝側によって発見される場面。ちょうど、首を切り取っている場面。実に、生々しい。

最後は、その首が、槍の先に括り付けられ、都に運ばれている場面。乱を起こした藤原信頼が、牛車から上半身をのぞかせて、その首を実検している。周囲には、多くの武士が描かれているが、一人一人の表情やポーズが描き分けられていて、この絵巻の質の高さを感じさせる。

会場には、それ以外にも、静嘉堂文庫美術館が所蔵する、鎌倉から江戸時代にかけての美術品が展示されていた。

『四条河原遊楽図屏風』。17世紀に描かれた、京都の鴨川の四条あたりの祭りの屏風絵。踊りを踊ったり、珍しい動物の見せ物を見たり、弓矢の的を射る遊びなどをしている風俗画。そのひとつひとつの場面が、克明に描かれていて、じっくりと、目を近づけて見ていると、時間がたつのを忘れてしまう。

鈴木其一の『雨中桜花紅楓図』。桜の抑えた色合いと、紅楓の朱色の対比が、ただただ美しい。

酒井抱一の『波図屏風』。精密な画風で知られる抱一だが、簡潔でダイナミックな波の表現が印象的だった。

まさに、珠玉の日本絵画を満喫した時間だった。さすが、岩崎財閥の財力を誇示するような内容の展覧会であった。

2012年5月2日水曜日

汲めども尽きぬ北斎の泉〜ホノルル美術館所蔵北斎展より


三井記念美術館で開催されていた『ホノルル美術館所蔵 北斎展』を見た。

有名な富嶽三十六景の赤富士や神奈川沖波裏から、あまり知られていない作品まで、北斎の多彩な作品が展示され、とても楽しめた。

ヨーロッパの遠近法の手法を使って描かれた浮絵。『東叡山中堂の図』、『浦島竜宮入の図』の2つの絵が展示されていた。新しい手法を取り入れるその柔軟性、完璧に使いこなす技術の高さが見て取れる。

『僧正遍昭』。そのひらがなの文字を絵に取り入れて、見事に人物像を描いている。北斎のユーモア感覚がいかんなく発揮された作品だ。

最晩年に描いた『地方測量図』。その名の通り、海を望む丘陵地で、測量チームがあちらこちらで、測量器具を使いながら測量を行っている。どういう経緯でこの絵が描かれたのかはわからないが、どんな注文でもこなしてしまう、北斎の絵の職人としての幅の広さが窺える。

百人一首の歌にちなんだシリーズ物の浮世絵の一枚。海女たちが海で泳いでいる図。水面の上に出ている顔や手や足だけ描いている。あとの部分は波の下で見えない。しかし、まるで、切断された顔や手足が波の上にプカプカと浮いているように見える。まるで、シュールレアリズムの作品のようだ。

北斎の絵には、実に多くの人間が描かれている。そのほとんどは、一般の庶民だ。彼らが、実に生き生きとした表情をしている。北斎の生きた時代は、幕末の時代。大変な時代だったように思えるが、意外と、庶民はその中でも、たくましく、毎日を楽しく過ごしていく、そんな知恵を身につけていたのかもしれない。

北斎の絵には、いつ見ても新しい発見がある。その意味では、北斎は、汲めども尽きぬ泉のようだ。

三井記念美術館のホーメページ