2012年6月25日月曜日

独立した文化の形〜紅型 琉球王朝のいろとかたち


サントリー美術館で開催された、『紅型 琉球王朝のいろとかたち』展を見た。

15世紀に、琉球王朝が成立。中国や東南アジア、日本といった周辺文化の影響を受けながら、琉球王朝は、全く独自の文化を形成した。

この展覧会では、その独立した文化を、紅型という衣装の図柄を通じ、目の当りにすることができた。その独特の文様と色使いの組み合わせは、鮮明な印象を私の心に残した。

個々の文様や、色合いは、確かに、同時代の中国や、日本にも同様なものを見つけることが出来るだろう。しかし、それらが見事に統合され、1つの作品になると、他の地域では見られない、独自の文化の形を作り上げている。

それは、まるで、ゴーギャンやブラマンクの原色を大胆に使った風景画、装飾的なマチスの絵画を連想させた。

展示品の説明に、”国宝”という言葉があったが、何か、しっくりしない、違和感を感じた。それは、ギリシャの宝が、イギリスやドイツの美術館に展示されている、その違和感と似ていた。

私たちは、この、かつて存在した王朝について、もっと多くのことを知るべきだろう。

2012年6月17日日曜日

私がエルンストを好きな理由〜『マックス・エルンスト フィギュア×スケープ』展


マックス・エルンストは、私が最も好きなアーティストの一人だ。しかし、私には、その理由を、これまでは、上手く説明できなかった。

この、横浜美術館で開催された、『マックス・エルンスト フィギュア×スケープ』展を見たら、その答えが見つかるかもしれない。そんな期待を持って、横浜を訪れた。

フィギュア×スケープとは、エルンストの作品のモチーフの中でよく使われるのが、フィギュアと森などの風景である、ということからきているらしい。

フロッタージュという技法で作成された版画集、『博物誌』。どこかで見たようで、また見たことがないような、不思議なオブジェクトが並ぶ。エルンストは、聖書の天地創造をイメージして、この版画集をまとめたという。

そこに描かれているもの、そして、それを描く技法。そのいずれもが、紛れもなくエルンストだけのもの。これは、まさしく、エルンストの世界の『博物誌』だ。

コラージュ・ロマンという、大衆向けの雑誌のイラストをコラージュして、物語を構成した作品。『百頭女』、『カルメル会に入ろうとした少女の夢』などそれらの作品を、私たちは、今日、文庫本で安価に購入することができる。

先の『博物誌』とは全く異なるアプローチで、エルンストは、それとは全く違った世界を作り上げてしまう。

森を描いた様々な油彩画。エルンストは、幼い頃に森を始めて訪れた時に感じた、恐怖と不思議な魅力について、写実とも抽象ともつかない方法で、森という対象を描いてる。

普通、私たちは、ある絵を見ると、これは、ゴッホだ、ピカソだ、ダ・ヴィンチだと、有名な画家であれば、その作者を言い当てることができる。

しかし、エルンストの作品を、彼の作品と言い当てることは、その作品を知らない限り、難しい。エルンストの作品には、実に個性的である一方で、そうした、無所属性がある。

この日、横浜は開講記念日で、横浜美術館は、入場が無料だった。ラッキー!実は、こんなところが、私がこのアーティストを、好む理由なのかもしれない。

2012年6月16日土曜日

至福の中国絵画コレクション〜山水画で何を描いたのか?

静嘉堂文庫で開催された、『東洋絵画の精華 至福の中国絵画コレクション』展を見た。

13世紀の南宋時代から、清の時代に至るまでの、山水画を中心にした、中国絵画の数々が展示されていた。

牧谿の『羅漢図』。牧谿は禅の僧侶であった。牧谿の絵画というと、一匹の鳥や、抽象絵画のような風景画がよく知られているが、この絵は、牧谿の絵画としては、実に丹念に描き込まれている。

岩山の風景の、画面の中央に、一人の羅漢が座禅を組んでいる。その異様な白い眼は、まるで映画『スターウォーズ』のダースシディアスの眼のようだ。羅漢の”気”とも言える、ただならぬ雰囲気が、その周りを取り巻いている。

道元が『正法眼蔵』の中で、”人が悟るのか、山野が悟るのか”と述べたことが、この絵には表現されているように思えた。

南宋の山水画を代表する二人の画家の作品と考えられている、伝馬遠の『風雨山水図』と伝夏珪の『山水図』が展示されていた。

伝馬遠の『風雨山水図』は、遠近を墨の濃淡で表現し、岩山、水辺、木々、そして大自然の中に、ひっそりと佇む館、豆粒のような人間。すでに、そこには、山水画が早くも到達した極地が描かれている。

伝夏珪の『山水図』。画面の右上から、左下に流れる三角形の構図が美しい。そこでも、遠くにかすむ岩山、水辺、へばりつくように建つ家、橋の上を歩く、小さく描かれた人物、などが描かれている。

山水画を求めたのは、そうした自然に暮らす人々ではなく、宮廷で、自然とはある意味で無縁の暮らしをする人々だった。彼らは、何を山水画に求めたのだろうか?息抜き、そこに行きたいという気持ち、あるいは、心の中にある理想の暮らしだったのか?

明代以降になると、まだ比較的新しいせいか、画面がパッと明るくなる。

陸治の『荷花図』。荷花とは中国語で蓮の花のこと。山水画と違い、博物画のように、蓮の葉と花が、細い線と美しい色合いで描かれている。背景にある、岩のゴツゴツとした感じとの対比が素晴らしい。

沈南蘋の『老圃秋容図』。江戸時代に長崎に来日し、およそ2年ほどその地で過ごし、当時の日本の絵画に大きな影響を与えた沈南蘋。一匹のネコが、岩肌に咲く朝顔にとまった虫を狙って、今まさに飛びかからんとしている。派手すぎず、しかし美しい色合いで、華やかに表現されている。

日本の画家の作品と言われても、そのまま納得してしまう。いかに、沈南蘋が日本の画壇に影響を与えたのかがよくわかる。

これほど、まとまった中国絵画の名品を鑑賞する機会は、あまりなかった。その神髄に触れることができた、貴重な時間だった。

2012年6月3日日曜日

琳派・若冲と雅の世界

そごう美術館で開催された、”京都 細身美術館 PartII 琳派・若冲と雅の世界”展を見た。

大阪の実業家、細見家が3代にわたって収集した美術品を収蔵する細見美術館の収蔵品を展示する展覧会の第2部。今回は、琳派、とくに伊藤若冲にフォーカスした展示内容だった。

伊藤若冲の『鶏図押絵貼屏風』。鶏が好きで、庭に何匹か飼い、いつもその動きに見入っていたという若冲。墨の濃淡を上手く使い、12匹の鶏の姿を、見事に描き分けている。

同じく若冲の『仔犬に箒図』。箒の穂先に、仔犬がじゃれついている。仔犬の表情が、とてもいい。その本人はいたって真剣な表情が、仔犬の愛らしさを、よく表している。

琳派では、鈴木其一の作品が充実していた。『藤花図』は、藤の花の房が、2本、長い画面の下まで垂れ下がっている。丹念に、花びらの一つ一つまで描いている。美しい。

土佐光吉の『源氏物語図色紙 初音』。江戸初期の作品。土佐派は、江戸時代に源氏物語もので定評のあった土佐派の、その位置つけを決定付けた光吉の作品。場面は、光源氏が、明石の上を訪ねるシーン。明石の上は、我が子が光源氏の正妻、紫の上のもとで暮らしているため、寂しい日々を送っていた。

とにかく筆使いが細かい。それこそ、クモの糸のような細い線で、琴の糸や、着物の細かい柄が描かれている。まさに職人技。

住吉如慶の『きりぎりす絵巻』。きりぎりすなどの昆虫たちが、着物を来て、平安貴族さながらな暮らしをしている。『鳥獣戯画』以来の、日本の伝統的な変わり者絵巻。今のアニメに通じるものを感じる。

そごう美術館は、ミュージアッムショップについて、内装を美しく改装して、ニューリアルオープンと銘打っていた。その一方で、美術館の展示スペースは、あまりメンテナンスしていないようで、全体的にくすんだ印象を受けた。

百貨店系の美術館として、その存在自体が、厳しい状況にあるのかもしれないが、少し、寂しい気がした。

2012年6月2日土曜日

ヨーロッパ絵画の歴史をたどる〜大エルミタージュ美術館展


新国立美術館で開催された、”大エルミタージュ美術館展 世紀の顔・西洋絵画の400年”を見た。

16世紀のルネサンス絵画から、20世紀の現代絵画まで、ルネサンス以降のヨーロッパの絵画史をたどる、野心的な意図を持った展覧会だった。

絵画作品だけで、16,000点以上を収蔵するというエルミタージュ美術館だからこそ、こうした企画を、それほど期待を裏切らずに、実現できたのだろう。

会場は、世紀ごとにルネサンス、バロックなどに分けられ、展示場の壁の色を変えるなど、工夫がなされていた。

16世紀 ルネサンス:人間の世紀。ティツィアーノ、ウェロネーゼ、ティントレット、レンブラント派などの作品が並んでいた。

ロレンツォ・ロット『エジプト逃避途上の休息と聖ユスティナ』。左胸にナイフの刺さった聖ユスティナが、眠る幼子イエスに祈りを捧げている、というグロテスクな絵画。眠っているイエスの顔は、まるで死んでいるようで、シュールだ。

ランベスト・スストリス『ウェヌス』。女神が室内でベッドの上に横たわっている。右手には、森の風景が描かれている。よくある構図の絵画。しかし、この女神の裸体が、明に白く、ボッテリとしていて、よくいわれる”マグロ”のように見える。

17世紀 バロック:黄金の世紀。ルーベンス、ヴァン・ダイク、レンブラント、ライスダール、ヤン・ステーンなど。

ルーベンス『ローマの慈愛』。餓死の刑を宣告され、牢につながれる哀れな父親に、娘が自分の乳を与えるという、これまたシュールな絵画。異常な世界が、ルーベンスのリアルな絵画技術で表現されている。ある意味で、バロック絵画の本質を表している。

18世紀 ロココと新古典派:革命の世紀。プーシェ、ランクレ、クルーズ、シャルダン、ユベール・ロベール、ヴィジェ・ルブランなど。

ランクレ『踊るカマルゴ嬢』。当時、フランス宮廷で、その容姿と踊りの巧みさで、ミューズともてはやされていた女性が、森(のセット)で、楽団を前にして踊っている。

ランクレの典型的なロココ絵画。美しい絵画だが、どこかで、はかなさや空しさを感じてしまう。人間が誰もが抱えている、悩みや苦しみが、そこにはまったくない。表面的な世界だけが、そこには表現されている。

私の大好きな、ヴィジェ・ルブランの『自画像』。以前、三菱一号館美術館で開催された、彼女の展覧会でも展示されていた。

フランス革命を逃れ、ロシアで絵画を描いていた頃の自画像。絵筆を握りながら、モデルを振り見た瞬間を描いている。宣伝のためでもあり、自らの姿を後世に残すためでもあったろう、その絵画を見ると、当時、働く女性が珍しかった時代に、自らの技術だけを頼りに、ヨーロッパの宮廷で、したたかに生き抜いた女性の真実を感じる。これこそが、真実の絵画だ。

19世紀 ロマン派からポスト印象派まで:進化する世紀。ドラクロア、コロー、シスレー、モネ、ルノワール、ドニなど。

レオン・ボナ『アカバの族長たち』。岩山と砂の風景の中を、アラブの族長たちが馬と徒歩で進んでいる。アラビア半島の乾いた空気、砂の雰囲気などが、みごとな絵画技術で描かれている。

ジェイムズ・ティソ『廃墟』。戦闘で廃墟となった建物の中で、二人の庶民と、キリストが腰を下ろしている。神なき時代を皮肉ったような、不思議な雰囲気の絵画だ。

20世紀 マティスとその周辺:アヴァンギャルドの時代。マティス、ピカソ、アンリ・ルソー、マルケ、ドラン、キース・ヴァン・ドンゲン、デュフィなど。

マティスの『赤い部屋』が話題になっているが、もう一枚展示されていた『少女とチューリップ』も美しかった。薄緑のブラウスの少女が、テーブルの上のチューリップを前に、なにやら物思いに耽っている。

使われているひとつひとつの色は、いずれも中間色で、美しいということはないのだが、それが1つのキャンバスに重ねられると、美しい色合いに変化する。まさに、マティスのマジック。

ヨーロッパの絵画の歴史を、駆け足でたどるこの展覧会。その400年の歴史を概観してみると、当たり前のことだが、ヨーロッパの絵画とは、ヨーロッパ人が、どのようにこの世界を見てきたのかを、そのまま描いてきたのだなあ、という思いを強くした。

大エルミタージュ美術館展の特設ページ