2012年8月19日日曜日

かつての思い出とともに バーナード・リーチ展より


民藝活動に興味を持っている人間にとって、聖地と呼ぶべき場所がある。東京の駒場にある日本民藝館がそれである。

民藝活動の主導者、柳宗悦の自宅をもとに造られたこの民藝館には、いつ訪れても、柳の民藝にかけた熱い思いが、そこかしこに満ち満ちているように思える。

この度、その日本民藝館において、柳とも親交の深かった、バーナード・リーチの作陶100年を記念した展覧会が開催された。

バーナード・リーチは、イギリス人だが、香港で生まれ、3歳まで日本で過ごした。10歳になると本国のイギリスに帰国したが、小泉八雲などの作品を通じ、日本には特別な思いを持ち続けていた。

1909年、22歳の時に最来日を果たし、そこで柳宗悦と出会い、彼を通じ、六代目尾形乾山から陶芸を学び、その後、濱田庄司らと、イギリスのセント・アイヴスを拠点に、多くの陶芸作品を残すことになった。

会場には、そうした陶芸作品や、下絵のデッサン、世界の各地を訪れた際のスケッチ、など多くのリーチゆかりの品々が展示されていた。

リーチの陶芸作品には、ほとんどの作品に、印象的な絵が描かれている。ウサギ、魚、鳥などの動物。木や草などの植物。農村の風景など、実に多くのイメージが、リーチ独特の穏やかなフォルムで描かれている。

特に、ウサギには思い入れがあったようで、多くの陶芸作品に描かれていた。

陶器に描く絵は、少ない線で、抽象画のように描かれたものが多いが、リーチの絵画の技術は、相当なものだった。リーチが描いた、柳宗悦、濱田庄司らの身近な人々のスケッチは、細かい点まで丹念に描かれ、実によく、その人物の表情を捉えている。

会場には、18、19世紀のイギリスの木製のチェストやイス、テーブルなども展示されていた。どの作品からも、木のぬくもりが感じられ、日本のその時代の民家に置いても、違和感を感じないように見えた。

リーチは、柳宗悦が注目した日本の民芸品の中に、単なる東洋の珍しいものへの興味というよりは、自らの故郷に相通じる、民衆の人々の生活の中にある美を見いだしたのに違いない。

私は、かつて、大阪に出張する機会が多い時期があり、淀屋橋のリーガロイヤルホテルを定宿にしていた。そこには、リーチがインテリアをデザインしたリーチバーがあった。

始めは、リーチのことを知らず、そのウッディなインテリアに、日本的とも西洋的とも思えない、不思議な空間感覚を感じ、長い間、私の一番のお気に入りの場所だった。その後、バーナード・リーチというイギリス人のことと、柳宗悦らとの交流のことを知った。

そんな私にとっては、この日本民藝館で開催された、バーナード・リーチ展は、数ある展覧会の中でも、とりわけ印象に深いものとなった。

2012年8月11日土曜日

”輝ける皇妃 エリザベート展”に見る 一人の女性の数奇な人生


1837年に現在のドイツ、バイエルンで生まれ、世紀末の1898年に亡くなったこの女性を、人はエリザベートと呼んでいる。

バイエルン王家の一員として生まれ、時のハプスブルグ・オーストリア皇帝のフランツ・ヨーゼフに見初められ、わずか14才で王妃となった。

その後のエリザベートの生涯は、完全に公のものとなった。日本橋三越で開催された、『輝ける皇妃 エリザベート展』では、彼女の生涯にまつわる、様々なものが展示され、その数奇な生涯を辿ることができる。

エリザベートは、フランツ・ヨーゼフとの間に、4人の子供を設けたが、皇太子となったルドルフは、父親との確執から謎の死を遂げた。

夫の母、ゾフィーと性格が合わず、王室の退屈な暮らしを嫌い、その広大な帝国の領土を、自分のために作られた専用列車で、放浪生活を送っていた。彼女一人のために、わざわざ時刻表まで作られた。展示会場には、その時刻表が展示されていた。

エリザベートは、自らのスタイルと美貌を強く意識し、生涯、その維持を怠らなかった。おそらく、彼女にとって、自分のその美しい体だけが、自分の思いのままになるものだったのだろう。それ以外のものは、全て、彼女の周りで決められた。

しかし、エリザベートが身につけた、ドレス、アクセサリー、調度品などは、すべてが彼女のために製作されたものだった。会場に展示された、それらの品々の多くには、彼女の頭文字である、”E”の文字を、見つけることができた。

特に、大きなEマークが刻まれていたベルトが印象に残った。ウエスト50センチ、といわれているが、確かに、細い。会場を訪れた多くの女性たちの中でも、このベルトを締めることができる女性は、数が少ないだろう。

エリザベートの生涯は、そのものが劇場だった。すべてが公開されており、誰もが、その悲喜こもごもの人生を、自らの人生と重ねたり、共感を感じることができる。

会場の最後のコーナーに、エリザベートのデスマスクが飾られていた。60才を過ぎたその顔は、お世辞にも美しいとは言えない。すでに若き頃の面影が、消えかかっていた。もしかしたら、その時期で、この世を離れることができたのは、自らの美に生きたエリザベートに取っては、幸せだったのかもしれない。

2012年8月5日日曜日

死への恐怖の遺産 大英博物館 古代エジプト展


人間にとって、死は誰にも訪れる、逃れられない宿命だ。古代エジプト人は、人間は死後も再び蘇ることができると考え、ピラミッド、ミイラ、死者の書などを作り、その一部が、今日まで伝わっている。

森アーツセンターギャラリーで開催された、「大英博物館 古代エジプト展」で、大英博物館が所有する、膨大なミイラ、死者の書などの一部を、見ることができた。

この展覧会の目玉は、紀元前10世紀ごろに作られ、いままで発見されている中では、最長の37メートルにもなる死者の書である、「グリーンフィールド・パピルス」。特別室に、その全てが展示されていた。

内容は、この死者の書を作らせた人物が、ミイラとなる所から始まり、やがて、オシリス神の前で、生前の行いについて審判を受け、ついに再生し、冥界の楽園に到着するまでが描かれている。

このパピルスは、上部に絵が描かれ、下部に、いわゆるヒエログリフで文章が書かれている。下部のヒエログリフは、さっぱり意味が分からないが、上部の絵の部分を見ると、当時の人々の考え方や、当時のエジプトの様子などが垣間見える。

絵の中には、ワニ、ヘビ、牛、サル、タカ、ライオン、などの様々な動物が描かれている。あるものは、神の姿として描かれている。当時のエジプトには、実に多くの動物が暮らしていたのだということがわかる。

古代エジプト文明は、およそ紀元前3000年ころから始まり、ローマ帝国に併合されるまで、およそ3000年もの間続いた。始めは、エジプト王だけが再生できると考えられたが、徐々に、その範囲が広がり、このパピルスが作られた時代には、自分の富でミイラと死者の書を作れる人間は、再生できると考えられたようだ。

「グリーンフィールド・パピルス」は、丸められた状態で発見されたが、その並び順は、バラバラだったという。内容を解読し、順序付けたのは、バッジという古代エジプトの研究者だった。

このバッジという人物は、映画のインディ・ジョーンズみたいな人物で、自らエジプトを何度も訪れ、多くの古代エジプトの文化財を派遣し、イギリスに贈った。エジプト人から見れば、祖先が残した貴重な宝の略奪者、ということになるが、彼がイギリスに持ち帰っていなければ、現在、私たちが目にすることはなかった。文化財の保護について考えるにあたり、大きなジレンマがそこにはある。

会場には、最も完成度が高く、美しいといわれる「アニの死者の書」の複製も展示されていた。この「アニの死者の書」は、他ならぬバッジが発見し、イギリスに持ち帰ったものだ。

「死者の書」が最初に作られたのは、紀元前1700年頃だと考えられている。それまでは、独立した書ではなく、ミイラを収める棺に、同様の内容がヒエログリフや絵で描かれていた。会場には、「コフィンテキスト」とよばれるそうした内容が書かれた、棺も展示されていた。

エジプトは、”ナイルの賜物”という言葉にもあるように、ナイル川の恩恵を受けて、古代から農作地帯として発展した。一般の人々も、小麦から作ったビールを味わうなど、比較的豊かな暮らしをしていた、と考えられている。王や金持ちであれば、なおさら豊かな暮らしをしていただろう。

だからこそ、それらを全て失ってしまう死への恐怖は、誰よりも強く感じていたのかもしれない。その死への恐怖が、膨大な、ミイラや死者の書などを生み出し、それが今日では、古代エジプト文明を代表する遺産となっている。

アラブって何?そんなものは本当にあるのか? アラブ・エクスプレス展から

アラブ・エクスプレス展という名前の、東京の森美術館で開催された展覧会は、自分の中に持っている、”アラブ”という概念について、改めて、”アラブって何?”、と、問いかける機会を与えてくれた。

昨年の春から始まった”アラブの春”。今もシリアでの内戦という悲劇で、アラブという存在は、ニュースを通じて、私の日常に入り込んでいる。

しかし、アラブのアートは?


リーム・アル・ガイス「ドバイ:その地には何が残されているのか?」。ドバイの世界最高層ビルであるブルジュ・ハリファの建築現場を再現した作品。

トム・クルーズの「ミッション・インポシブル」でのロケ地としても使われたが、同じ対象を、どのように表現するのか。その違いが、如実に現れていて妙味深い。


マハ・ムフタファの「ブラック・ファウンテン」。石油を想わせる黒い水が、高く湧き上っており、その跳ね返った黒い水滴が、周囲に飛び取っている。

この黒い水の湧き上る音、下に落ちる音。その音がこの部屋に響いており、写真で見ただけではわからない、圧倒的な存在感を感じさせる作品。

森美術館が地上53階にあるため、背景に、東京の風景が望める。それも、この作品の一部になっている。都市の生活は、黒い水”石油”によって支えられ、そこからは、また別の黒い水”排水”が大量に流されている。


ラミア・ジョレイジュの「ベイルート−ある都市の解剖」。

ベイルートに生まれ、現在もそこに暮らすラミアが、この都市について、古代から最近の内戦などの歴史的な資料や写真と、現在の町の様子などの写真や映像を、年表風にまとめた作品。

この作品を見ると、”歴史”というものは、客観的なものではなく、つねに誰かの歴史であるということがよくわかる。勝者の歴史、敗者の歴史、私の歴史、あなたの歴史・・・。

会場を後にして、考えた。果たして、私が今見たものは”アラブのアート”だったのか?、それとも、単なる個々のアーティストの作品だったのか?

そのどちらでもあり、そのどちらでもないような気がする。

ただ一つだけ言えるのは、どの作品も、そのアーティストの身の回りで起こっていることが、そのアーティストなりの手段で、表現されていた、ということだった。