2012年7月22日日曜日

キュレーティングが光る ひっくりかえる展


外苑前のワタリウムで開催された、『ひっくりかえる展 - Trurning around - 』という奇妙な展覧会を見た。

4組の”革命的な”アーティストグループによる、”価値を代える”をテーマにした内容。こうした内容の展覧会は、ワタリウムに相応しい。

ワタリウムに向かう信号で待っている時に、建物にかけられていた、不思議な指名手配写真に思わず目がいく。これは、出展しているグループの1つ、ヴォイナが作成したビラ。

ヴォイナは、プーチンが支配するロシアにおいて、権力を敵視し、博物館で公開セックスを行うなど、いわくつきのアーティスト・グループ。この指名手配写真は、メンバーの一人が法廷に出廷したときの写真をもとに作成された。

ヴォイナとは、ロシア語で、”戦争”という意味するらしい。彼らが行っていることは、まさに戦争ということなのだろう。

アドバスターズというカナダのグループは、映像や雑誌などのマスコミを使って、社会を風刺する手法を使っている。会場には、文字通り「Adbunsters」という名前の雑誌のバックナンバーが展示され、誰でも手に取って、読むことができる。

その雑誌は、一見すると、イギリスの「The Economist」のような外観を持っている。しかし、中身は、「The Economist」のものとはかけ離れたものばかり。マスコミに置ける、ブランドやイメージを逆手に取った、おもしろい試みだ。

最上階の4階のスペースには、フランスのジェイアールというグループの映像が流されていた。彼らは、大きな写真を街中に貼り付け、弾圧や貧困、女性差別、といった社会問題を訴えている。

この展覧会のキュレーターも務めている、日本のアート集団。チン↑ポム。そのふざけた名前からもわかるように、渋谷の雑踏の中でクマネズミを捕獲し、その剥製でピカチュウを作るなど、いかにもふざけた内容のパフォーマンスの中に、現代社会をTurning aroundしようという緻密な試みが隠されている。

この展覧会のビラにもつかわれている、福島原発に対するレッドカードの写真は、実際に彼らが福島原発で作業員として働いた時に、撮影したもの。会場には、様々な映像作品が流されていたが、そうしたどの映像よりも、この1枚の写真は、私には大きなインパクトだった。

私は、最近、エルミタージュ展、ベルリン美術館展、マウリッツハイス展など、いくつかの展覧会を見ているが、出展されている個々の作品の質や好みとは別の観点で、1つの展覧会としての構成、キュレーティングという観点で言えば、この展覧会が最も優れているように思えた。

2012年7月21日土曜日

ただただ美しい世界を見た バーン=ジョーンズ展


バーン=ジョーンズというと、ラファエル前派の画家とされる。しかし、その存在は、いつもガブリエル・ロセッティ、ジョン・エバレット・ミレーの次、いわば第2グループに置かれてしまう。

この三菱一号館美術館で開催されたバーン=ジョーンズ展では、彼を一度、ラファエル前派という枠から取り外し、一人のアーティストとして捉え直すという、野心的な取組が行われた。

ロセッティやミレーは、伝説や物語に関する絵画を多く描いたが、同時に周囲に人々の様子なども多く描いていた。バーン=ジョーンズの作品のテーマは、ほぼ伝説や物語に限られている。この点が、明らかに、バーン=ジョーンズを、他のラファエル前派の画家達と、違う存在にしている。

聖ゲオルギウスの連作シリーズのうちの1枚。イギリスののどかな田園風景の中で、初期キリスト教の伝説の聖人、ゲオルギウスが、その剣で竜を退治している。その右手では、救われた乙女が、手を合わせて祈りを捧げている。

聖ゲオルギウスは、冷静な表情で、まるで日常の些細な事柄を実行するような手軽さで、足下の竜の口に剣を突き通している。竜は、聖ゲオルギウスとほぼ同じくらいの身長で、弱々しく、むしろ、この絵を見ていると、退治される竜の方に同情してしまう。

トロイ戦争の発端となるエピソードを描いた「ペレウスの響宴」。横長の画面一杯に、美味しそうな食べ物の載った食卓が描かれ、その周りに、ゼウス、アテナなどのギリシャの神々が描かれている。

この絵は、どうみても、ギリシャ神話というよりは、キリスト教の最後の晩餐を連想してしまう。バーン=ジョーンズは、個別の宗教にこだわらない、むしろ宗教や古代の物語に共通する、神話性、とでもいえるものを描きたかったのだろう。

バーン=ジョーンズは、ラファエル前派のメンバーでありながら、ラファエロいうよりは、むしろボッティチェリやミケランジェロの作品から、多くのインスピレーションを得ていたようだ。「ペレウスの響宴」にも、ボッティチェリの「春」に描かれているような、色とりどりの花が、地上に描かれている。

バーン=ジョーンズのいくつかの絵画には、ボッティチェリの「春」に描かれている三美神のイメージが、何度も描かれている。バーン=ジョーンズのお気に入りのイメージだったのだろう。

眠り、もまたバーン=ジョーンズの絵画によく登場するテーマだ。眠り姫、いばら姫の連作や、「聖杯堂の前で見る騎士ランスロットの夢」などの作品に描かれている。眠りのテーマは、象徴主義にも通じ、バーン=ジョーンズをヨーロッパ大陸の象徴主義者たちと、深く結びつけている。

会場の最後の部屋に飾られていた「東方の三博士の礼拝」のタピストリ。縦2.6メートル、横3.9メートルに渡る、色鮮やかなタピストリ。何度も多くの画家のテーマとなってきたこの絵画だが、私は、これほど美しいタピストリ、これほど美しい「東方の三博士の礼拝」の絵をみたことがない。

このタピストリを見るだけでも、この展覧会に出かける価値がある。

最後に、珍しい、自らを戯画化した自画像が置かれていた。多くの作品を目の前に、困惑するようなコミカルな様子のバーン=ジョーンズが、イスに座っている。

留まることなく湧き上る作品のイメージに、制作が追いつかず、困惑するバーン=ジョーンズ。本人は、実にユーモア心にあふれる人物だったというが、彼のほとんどの作品からは、そうした側面はほとんど感じられない。この絵は、そのギャップが秀逸で、微笑ましい気持ちで、会場を後にした。

この展覧会の印象を一言でいえば、ただただ美しい世界を見た、とでも言うことができるだろうか。

2012年7月16日月曜日

微妙な構成のベルリン国立美術館展


ベルリン国立美術館、という名前の美術館は存在しない。ベルリンに存在する15の美術館の総称が、ベルリン国立美術館群とされる。

通例として、その15の美術館のどこからか出品された場合、ベルリン国立美術館所属として紹介される。

上野の国立西洋美術館で開催された、「ベルリン国立美術館展 学べるヨーロッパ美術の400年」という、実に野心的な題名の展覧会も、実態は、上記15の美術館のうちの3つの美術館、絵画館、素描版画館、ボーデ美術館からの出展ということのようだ。

その名前からわかる通り、この展覧会は、絵画、彫刻そして素描から構成されていた。

この展覧会の目玉は、フェルメールの「真珠の首飾りの少女」だろう。同じ時期に、同じ上野の東京都美術館で開催されている展覧会では、同じフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」という作品が展示されていて、ややこしい。

作品自体は、勿論、美しい。絵の左端の窓から光が入り、その光が人物を中心とした室内の対象に、様々な陰翳をもたらすという、フェルメールの典型的な絵画だ。

女性の真珠の首飾りはもとより、毛皮たっぷりの洋服、中国磁器など、いかにも裕福な家庭を象徴するものが描かれているが、少女が真珠の首飾りを映している鏡が、実に小さい。これほど裕福な家であれば、もっと大きな鏡を買えるのでは?

この鏡の小ささに、何か意味があるのだろうか?

ティルマン・リーメンシュナイダーの「竜を退治する馬上の聖ゲオルギウス」。ルネサンス期のドイツを代表する彫刻家。日本ではあまり目にする機会がないだけに、貴重な鑑賞の機会となった。

馬に乗って竜を退治する聖ゲオルギウスは、まるでたった今、眠りから覚めたかのような、眠そうな表情をしている。リーメンシュナイダーにとっては、竜を退治するという荒々しい行いにあっても、聖人は、その心の中に、静寂さがなければならない、と考えていたようだ。

デッサンのコーナーでは、ボッティチェリによる、ダンテの神曲の挿絵の素描が2枚展示されていた。その筆の細かさは、まるでミニチュアールや、日本の洛中洛外図のよう。

他にも、デューラー、クラナッハ、ベラスケス、ルーベンス、レンブラント、デッサンでは、ミケランジェロ、ラファエロなど。錚々たる名前が出展リストに並ぶが、全体の構成が、今ひとつの感があった。

ある意味で、玄人向けの展覧会とは言える。”学べるヨーロッパ美術の400年”と銘打ってはいたが、その内容に、やや拍子抜けした人も多かったのではないだろうか?

2012年7月14日土曜日

オランダ絵画の精髄 マウリッツハイス美術館展


長い間、改装のために休館していた東京都美術館が、いよいよリニューアルオープン。その第1弾の企画展は、オランダの王立絵画館であるマウリッツハイス美術館展だった。

同じ時期に、新国立美術館でエルミタージュ美術館展が、同じ上野の国立西洋美術館でベルリン美術館展が開催されていた。そのいずれもが、ルネッサンスから現代に渡る西洋美術史のほぼ全体をテーマにしていたのに比べ、このマウリッツハイス美術館展は、17世紀のオランダ絵画のみをテーマにしていた。

しかし、範囲は狭いが、その内容の充実度は、他の2つの展覧会に決して引けを取っていない。ルーベンス、レンブラント、フェルメール、ヤン・ブリューゲル、ヴァン・ダイクらの錚々たる名品で構成されていた。

中でも、フェルメールの「真珠の耳飾りの女」の出展が大きな話題になっていた。展示スペースも他の絵画とは別格で専用ルームが用意された。

見学者は、部屋の入り口で、歩きながら近くでこの絵画を見るか、少し離れた場所で、じっくりこの絵を見るかの選択を迫られる。近くで見る人たちは、長い行列に並ばされ、少しづつ歩きながら、この絵を目にする。少しでも、立ち止まろうものなら、”立ち止まらないように、ご協力をお願いします”と係員から、歩行を促される。

フェルメールは、もう一つの作品が展示されていた。「ディアナとニンフたち」。フェルメールが画家のギルドに入った1653年頃に書かれたと考えられている。いわゆる、フェルメールらしい、室内で光が左から当たっている、というタイプの絵ではなく、歴史画と言われる古典的な内容の作品。文字通り、ディアナとニンフたちの5人の人物と、1匹の犬が描かれている。フェルメールの絵と言わなければ、誰も注目しないような絵画だ。

展覧会は、6つのパートから成り立っていた。美術館の歴史、風景画、歴史画、肖像画、静物画、風俗画。まさに、オランダ絵画の代表的なジャンルを、最高レベルの作品で味わうことができる構成だった。

風景画では、ライスダールの2つの作品、「漂白場のあるハールレムの風景」と「ベントハイム城の展望」が、見応えがあった。ライスダールの細かい筆さばきが、オランダの独特な空気感を見事に再現している。

歴史画では、ルーベンスの、有名なアントワープ大聖堂の聖母被昇天の下絵が印象に残った。『フランダースの犬』で、画家を目指しながら、主人公のネロが、志半ばにして死を向かえるにあたり、最後に目にすることを望んだのが、この大聖堂の絵画だった。

その他にも、レンブラントの「スザンナ」と「シメオンの讃歌」という作品が展示されていた。「シメオンの讃歌」は、レンブラントの初期の作品で、細かい筆さばきが見事に発揮されている。

肖像画のコーナーが、この展覧会全体の中でのハイライトだろう。先に紹介したフェルメール以外にも、興味深い作品が満載のコーナーだった。

フランツ・ハルスというと、早いタッチの人物画を得意として、笑顔などの躍動的な表現で有名だが、「ヤーコプ・オリーカンの肖像」とその妻の肖像では、全く別な様式で描かれている。

早いタッチは息をひそめ、レースの細かい模様が、細かい筆使いで丹念に描かれている。ハルスの職人画家としての、その技量の幅の広さを証明した、印象の深い作品だった。同じ形式で、ヴァン・ダイクによる夫婦の肖像画があり、むしろ、ダイクの作品の方が、粗いタッチである、という印象を与えていた。

そして、レンブラントが死の2年前にあたる1669年に描いた「自画像」。絵の前に立つと、本当の一人の人物を目の前にしているような、不思議な感覚に襲われた。

目の前にあるそれが、2次元のキャンパスに描かれた絵画であるということは、頭の中ではわかっているのだが、絵画の中のその年老いた男の瞳を見つめると、その瞳が私に語りかけてくる。

このような気分を味わったことは、私にとっては初めての経験だったので、少なからず、動揺を覚えたが、とにかく、このレンブラントという17世紀のオランダ人画家が到達した極地が、この絵画に表現されていることに、改めて、深い感動を覚えた。

静物画は、それを描く画家の技術を図ることができる絶好の基準だ。ガラスの器、銀の皿、皮を剥かれたレモン。そうした、定番の対象の描き方で、その画家の技術レベルを判断することができる。

ヴィレム・ヘーダの「ワイングラスと懐中時計のある静物」には、焼き魚、という珍しく、日本人にとっては馴染みの題材が描かれていて、眼を引いた。焼き魚のこげた部分が、本当に上手に描かれていて、ヘーダの技術の確かさが窺える。

最後の風俗画のコーナーでは、ヤン・ステーン、デル・ホーホ、テル・ボルフらの代表的な画家たちの中で、私の眼を引いたのは、ヘリット・フォン・ホントホルストの「ヴァイオリン弾き」という作品だった。

ホントホルストは、イタリアに絵画を学び、特にカラバッジオの技法を学び、オランダに持ち帰った。その絵は、まさに、”カラバッジオ風”だった。

カラバッジオの光と影を使った劇的な表現方法は、その後の絵画に歴史に圧倒的な影響を与えた。ルーベンス、ベラスケス、レンブラントらも、カラバッジオに大きな影響を受けている。

この展覧会に展示された作品数は、48。決して多い数ではない。しかし、その内容の密度の濃さは、そうした作品数の少なさを、忘れさせるほど、印象の深いものだった。これぞ、オランダ絵画の精髄、という内容の展覧会であった。